2011年5月15日日曜日

ブログ移転のお知らせ

金ゼミブログは2011年度版へ移行します。
http://kimseminar2011.blog.fc2.com/
今後ともご愛読よろしくお願いいたします。

2011年3月20日日曜日

金ゼミのプレゼンって?[矢部]

商学部2年の矢部貴大です。

今回、僕からはプレゼンテーションについて話したいと思います。やべがプレゼンについて語るのかwと思いの方、スルーお願いします笑

やはりなんといっても、金ゼミに入ると感じることはプレゼンが多いということです。去年の5,6月頃、僕も金先生にそのような話をした覚えがあります。普通に日吉を過ごしていれば、1年生でプレゼンをする機会なんて数える程しかないと思います。(個人的な活動は別として、大学のクラスで)プレゼンをする機会なんて語学で、パワポとかレジュメとか使って、それを読みながらやる程度で時間も短く、準備とかも前日にやれば間に合う的な感じで、簡素なものだったと思います。

それが金ゼミに入れば、変わります!それを僕なりの3つのポイントに分けて述べていきたいと思います。

1、機会の宝庫
2、voice or die
3、FB
の3点です。

1、機会の宝庫
まず金ゼミはその貴重なプレゼンの機会というものをたくさん用意してくれます。1週間に1回回ってくることも時にはあり、それはそれはとても新鮮でした。プレゼンというものは練習していってうまくなるものなので、機会があればあるほど幸せなのです。確かに1週間で回ってくるときついのでは?と思う方もいるとおもいますが、それは甘えにしかならないと思います。プレゼンがある週はしっかりと文献を読んで、skypeで会議をしたり、スライドを作るなど忙しいですが、終わった後はとても快くなれます。そしてその中でも先輩や同期は密度の濃いプレゼンをしていました。全ては自分次第なのですが、環境が自分を変えることだってあるのです。プレゼンの回数が多いということは、ゼミ生それぞれの、多種多様なプレゼンを見て学ぶこともできるという素晴らしさもあります。ちなみに、去年はバンダイナムコゲームスと共に新規事業案を考えて、副社長などの方々の前でプレゼンをしました。

2、Voice or die
金ゼミで一番始めに聞いた言葉がこの言葉なのですが、とても心に突き刺さるものです。聞いただけだと、ボイスは大(だい)と勘違いしてしまう可能性もあるので、英語で表記しておきます。金ゼミでは大方、プレゼンとセットでディスカッションが組まれます。そのプレゼンをしたトピックについて、各々の意見を述べるのです。時にはディベートもあり論理的かつ批判的に物事を思考することが求められるので、とても頭を使います。自分に落とし込めたと思ったらもう議論は収束の方に向かっていたりと初めのほうは難しいと思いますが、これも反復あるのみです。僕個人としては、ゲストスピーカー(専門家)と意見を交わすことができるのは、とても有意義だったなと心に残ってます。とにかく金ゼミでは、声を出すことに意味があります。

3、FB
facebookではなく、feedbackです。これも金ゼミプレゼン時の特徴です。プレゼンをやる度に金ゼミではオーディエンス全員がプレゼン評価シートなるものを書いて、発表者に渡します。とても的確なものが書かれていて毎回参考になります。(自分の喋り方の癖とかは全然分からないものです.....)毎回プレゼンは緊張します。しかし、その真剣/本気な雰囲気/空気があるからこそ興味深いものであって、それを楽しいと思えたら、もう向上する一方だと思います。非日常の場だからこそ非日常なことが起こるのです。それを指摘してくれるのがフィードバックだと思います。そして、仮説や問題意識、課題、展望などの個々のファクターやプレゼンアジェンダの立て方、そしてトピックの専門的な知識などのフィードバックを与えてくださるのが、金先生です。これはとても貴重で毎回聞き入ってメモをとるほどです。

以上
1、機会の宝庫
2、voice or die
3、FB
の3点でした。

金ゼミの先輩方にはプレゼンが上手い人がたくさんいて毎回学ぶことばかりです。プレゼンは毎回毎回変化していくものですし、失敗を繰り返して繰り返していく中で模索していくので、(僕は毎回が失敗です)成功には近づくことはできても、たどり着くことは不可能だと思うので、毎回気持ちを入れ替えて本気でチャレンジするのみだと思います。

2011年3月13日日曜日

金ゼミと他ゼミで迷っている新入所生に【岡本】

はじめまして。金ゼミ5期生の岡本直人と申します。ブログをご訪問いただき、ありがとうございます。折しも日本中が大変なことになっている週にブログ担当と相成りました…

ではまず最初に、他ゼミと金ゼミで迷っている新入所生にごく主観的な判断基準を提示しようと思います。

◎他ゼミで扱う「○○」という分野が…(「○○」内は「新聞」・「通信」・「出版」など、何でも)

A.今後、大きく変わっていく必要があると感じている→金ゼミへ!(以下に理由を明記)
B.このままであり続けると思っている→他ゼミへ(これ以降読まなくていいですよ笑)

金ゼミの扱うテーマや雰囲気については既にいくつかエントリがあるようなので、今日は敢えて「金ゼミで新聞を学ぶ意義」という各論について考えてみたいと思います。その中で金先生の考え方についても触れていくつもりなので、新聞については特段の興味のない方にも参考になれば幸いです。

自分は元々は新聞記者志望で、ジャーナリズムや新聞そのものについて学びたくてメディコムに入ったようなクチですが、大石ゼミも山腰ゼミも回避したような、金ゼミの想定するターゲットとしては恐らくやや異色の人だと思います。ですが、この選択について一度も後悔したことはありません。むしろ、このゼミに入ってみて、温故知新的なジャーナリズム論のアプローチはあまりに時代遅れのような気がしています。

もちろん犯罪被害者への配慮のあり方だったり、冤罪を助長しない取材の手だてだったり、過去の歴史から学べることはたくさんありますし、それは確かに学ぶべきことと思います(ジャーナリズム論では、この辺はかなりアツいテーマですよね)。ただ思うに、と言うよりは明らかに、昨今の新聞が抱える問題の根は、過去を辿れば解決策が見つかるほど浅くありません。

その証拠に、新聞は業界全体として自らの失敗に学び、修正するというプロセスを数多く経てきています。集団的過熱取材に業界として一定のルールを設け、署名記事を拡大し、若者向けの企画紙面を増強(読売の文化面や朝日の『GLOBE』など)し、ニュースソースを明示するなど、細かい点とはいえ過去に問題視されていたような項目に一つ一つ決着をつけてきました。にもかかわらず読者は離れるばかり。

加えて、新聞を含めた全てのメディアは「情報の統制が破られる」というかつてない事態に直面しています。Twitterはじめ動画サイト(CGMサイト)、あるいはウィキリークスや自由報道協会(上杉隆の例のアレ)といったような、「権威付けられたマスメディア以外の媒体」による情報発信が明らかに流行しています。

つまり、過去何年かに渡って自らの改善だけを考えていればよかったマスメディアはかつてない障害によってその存在すら脅かされている。

そこにきて従来的な「改善」のためのアプローチは言わば、敵が眼前に迫って筋トレを始めるようなもので、そんな呑気なことで大丈夫かということになります。

眼前に迫った強敵には、がむしゃらにでも武器を持って戦わないと。そしてその武器こそが「イノベーション」なのではないか、と僕は思うんですね。

改善をいくら積み重ねたところでそれは「大きな改善」でしかなくて、事実「大きな改善」を持ってして新聞業界はどん詰まっているわけです。「新聞に何かしら悪いところがあって、それを改善しさえすれば読者はどんどん増える」、それが確かな前提であるとすれば、従来的なジャーナリズム論にも大いに意味はあるでしょう。そういったものを洗い出しては改善策を考えることを主軸としたような学問のようなので。

ただ現状残念ながらそうではなくて、これから本当に新聞が訴求していかなければならない層は「新聞の紙面が改善しようがしまいが、そもそも読まないからその変化に気付かない層」なわけですよね。皮肉なことに。新聞を読まない層に、「いかにして読ませるか」を考えていく必要がある。これは「ジャーナリズム」一辺倒ではあまりにも手に余る問題というのは誰の目にも明らかです。

だからこその変革。だからこそのイノベーション。だからこその金ゼミじゃないですか。

金ゼミは「新しいこと」を学ぶゼミです。先生は「人と違う山を登れ」を信条とされています。だから手垢のつきまくったようなジャーナリズム論を学ぶことはこのゼミの本旨とは外れますが、「新聞に代わる新しいメディア」や「来る未来の新聞の在り方」について最新の事情から考察することは立派にゼミで扱うテーマとなり得ます。

もちろんこの金ゼミ、新聞についてだけ学ぶゼミでは全くありません。それどころかガッツリ「新聞について」学ぶことなど年に2回あるかないか位のものです。それでも僕が「新聞について」も様々な洞察を得られたのは、個人的に色々と情報収集していたことももちろんありますが、情報という「コンテンツ」の最先端に日々のゼミで触れることで、未来の新聞の在り方を垣間見たからかもしれません。

「未来の『○○』について洞察を得られる」というのは『新聞』に限らず言えることで、『テレビ』にしろ『出版』にしろ『通信』にしろ、メディコムで想定している入所生の興味分野には必ずやリーチすることと思います。新聞の歴史、テレビの歴史、出版の歴史。それぞれの軌跡を学ぶことは確かに大切なことかもしれませんが、たとえばそれがいつまでも「今」という時系列と出会わなければ、結局この瞬間の現実を相手にできないじゃないですか。

先にも挙げたTwitter、ウィキリークス、自由報道協会、CGM。Web2.0、あるいは来たる3.0時代に覇を唱えるべく、イノベーションの種はかつてないほど「そこら中に」転がっています。あるいは一発逆転、イノベーションは旧来のメディアから起こるかも知れません。

多くのメディアがそんなかつてなく流動的で興味深い情勢の渦中にあるにもかかわらず、まだ「改善」を旨とした、古臭い内省的な視点にこだわる理由が一体どこにあるでしょうか?

人はなぜ戦国時代にロマンを感じ、明治維新に現を抜かすのでしょう?思うにそれは、かつてその時代が持ち得たであろう、変革を期する膨大な熱量にあてられたからではないでしょうか。

そして時はまさにメディア戦国。この熱気を金ゼミという場で共に味わってみませんか?

2011年3月7日月曜日

金ゼミへようこそ【吉田】

新入所生の皆さん、はじめまして。
法学部政治学科2年の吉田世博です。

皆さんは金ゼミについてどんな話を耳にしていますか。「えぐい」「課題多い」「絡みづらそう」「まじめそう」「新入所生説明会でゼミ紹介してたやつが偉そう」などいろいろあると思います。そこで今日は金ゼミのあまり知られていない一面を3つ紹介したいと思います。

① 有名人に会える?
毎年金ゼミには多くのゲストがやってきます。国会議員や弁護士、有名企業の社長など各方面で活躍するゲストが、ゼミにやって来てゼミ生と熱い議論を交わします。そして多くの場合、その後の食事会にもゲストの方が参加してくれて、ゼミの場では聞けないことも気軽に聞くことができます。ゲストの方との交流は、勉強への刺激になるだけでなく、ゲストの方とできた繋がりを活かして活動をしているゼミ生もいます。
このように、金ゼミは社会とのつながりを多く提供してくれる場でもあると言えます。知識を学ぶだけでなく、実際にその分野の専門家と会って話を聞き、それをまた学習に活かすことができるという意味で、金ゼミは貴重な存在だと言えるでしょう。そして、もちろん僕のようなミーハーな人にとっては、有名人と語り合えるだけでも勉強のモチベーションはかなり上がっちゃいますよね。

② 自分のアイデアを商品化できる?
皆さん、日々の生活の中でこういう物(サービス)があったらいいなと考えたことはありませんか。金ゼミならそのアイデアを形にする機会があります。昨年は、株式会社バンダイナムコゲームスからの依頼を受けて、デジタルネイティブ世代(物心ついた時からインターネットがある環境で育った世代)の視点から新しいサービスを提案しました。詳しい内容はここではお話しすることができませんが、バンダイナムコゲームスさんの方から商品化を検討させて欲しいとの回答を受けたものもいくつかありました。
最後のプレゼンでは、開発担当副社長以下各部門の責任者の方々の前でプレゼンをしました。プロの方の経験に基づいた鋭い意見にたじろぐことも多くありましたが、同時に確かな手ごたえも感じました。学生ではもちろん、社会人でも自分のアイデアを直接会社の経営陣に売り込むこのような機会は珍しいと言えるでしょう。プロジェクトを通して、日々成長を実感できる毎日でした。

③ 飲み会の数はどこにも負けません?
金ゼミは何かとお堅いイメージがありますが、実は飲み会の回数はリア充と評判の某ゼミに負けません。金ゼミはグループワーク時間が多いこともあって、ゼミ生同士の繋がりはとても強いです。普段プロジェクトがない時でもSkypeで集まったり、飲みに行ったりすることはとても多いです。ゼミ生同士のまとまりが強いのは、「ただ同じゼミにいるから」という仲ではなく、本当に苦楽を共にしてきた仲間だからだと言えるでしょう。だからこそみんなで飲む楽しさも格別なのかもしれません。ここだけの話ですが、新ゼミ代表は金ゼミ一の酒豪としても知られています。
ここまで書くと、テニサーみたいなノリの飲み会をしょっちゅうやっているように勘違いされそうなので、念のために言っておくと、(基本的には)みんなまったりと飲んでおり、(たぶん)コールはありません。
皆さんもぜひ金ゼミに入って一緒に飲みに行きましょう!!

これはどこのゼミにも言えることだと思いますが、説明会のゼミ紹介やうわさだけではわからないことも多くあると思います。なので、オープンゼミの時にはぜひ多くのゼミを廻って、ゼミ特有の雰囲気を感じ取ってほしいです。そして、ぜひ多くのゼミの中で是非金ゼミを選んでほしいです。

騙されたと思って一度金ゼミに来てください。金ゼミ生一同皆さんのお越しをお待ちしています。

2011年2月26日土曜日

いらっしゃいませ

新入所生のみなさま、こんにちは。
商学部2年の矢野瑶子です。

メディアコム合格おめでとうございます。
入所できて本当にラッキー…1年在籍してみて、ざっくりこう思いますが、1年後皆さんとこの「ラッキー」が共有できることと思います。


さて、いきなり私事で申し訳ないのですが、少し聞いてやってください。
先日私は一つの決断をしました。商学部のゼミに入らない、ということです。少し説明を加えると、メディアコムは2年からゼミが始まりますが、3年からは自分の所属している学部のゼミも始まります。それに入るかは自由ですが、殆どの商学部生はそれに所属し、金ゼミでは約半分の先輩が自分の学部ゼミとの「兼ゼミ」をしてます。
ではなぜ私が兼ゼミを選ばなかったか?それは高橋さんも書いていた「機会の宝」を2年の時に半分も生かせなかったのではないか、と考えたからです。
機会?生かす?具体的に例を挙げたいと思います。
金ゼミでは、金先生の人脈が広いために本当に沢山の素敵なゲストスピーカーが来てくださいます。そこで色々なお話をしてくださって、自分としても非常にたくさんの気付きや知的好奇心、「こんな分野面白そう」「じゃあこっちはどうなんだろう」「これは違うと思う→なんでだろう」…というのが湧くのですが、それに対して答えを十分に出せないままにまた次の機会を得てしまうことが多くありました。その都度本を読んだり・調べたりしてそこに自分なりの答えをもっときちんと見つけるべきでした。
一言で言ってしまえば、消化不良状態です。中身が素晴らしいものだからこそ余計にもったいない。友達と「○○さんに会ってみたい」「あ、その方うちのゼミにいらっしゃったよ」という会話がこの1年で3回くらいありました。この1年そのような事態になってしまったのは自分が学生団体の活動などで十分な時間が割けなかったからと考え、これ以上時間を他のものに拘束されずにやっていきたい、そう思って下したのがこの決断です。


この話をを通して金ゼミがいかに「きっかけ」「機会」に恵まれているかが伝わってもらえればと思います。
私が言うのも何だかおこがましく聞こえますが、大学生活の中心に置いて「金ゼミに生きる」みたいなことをする価値ありありなんではないかな、と笑。
だから逆に自分を律して積極的に学ぼうとするのが苦手な人には金ゼミは難しいかもしれません。


金ゼミはタスクが多いからエグゼミなのではなくて、与えられている多くの立派な機会とそれを完全に自分のものにするまでのギャップを埋めるのが「エグい」ゼミなのだと思います。



あと、個人的には金ゼミにいる「人」が大好きです。金先生をはじめ(ちなみに私は金先生のオーラに惹かれるがままに入ゼミしました笑)、何でこんなに「知らないこと」がないのか!(「機会の宝」を自分の中で発展・消化しきっているのだと思います)という先輩方、個性豊かな同輩…。ちなみに私たち5期生の今年のモットーは吉田君の言葉を借りれば「仲良いだけは、もう終わり。」そのくらい居心地のいい仲間だと思っています。
皆さんも金ゼミに入っていただければ分かるはずです。


最後になりましたが、みなさんぜひ一度オープンゼミに足を運んでみてください。
そして一緒に勉強できることになりましたら「矢野、最近消化できてる?」と声かけてくださいね。

それでは次は…名前も出てきたことだし、博士こと吉田君よろしくお願いします。

2011年2月20日日曜日

新入所生むけメッセージby斎藤

はじめまして、法学部法律学科二年の斎藤拓也です。
今回は新入所生に向けたメッセージを金ゼミ五期生が書いていくという企画の第二弾です。

メディアコムにはたくさんの人との出会いがあり、いろんな可能性がありますが、その活動の中心はゼミになる事は言うまでもありません。そこで今回はゼミを選ぶにあたってのアドバイスについて書こうと思います。以下に三点を挙げます。

①できるだけ多くのゼミのオープンゼミに行ってみる
とても基本的なことですが、この事を僕は強くお勧めします。僕はメディアコム、学部共にゼミに関する説明会にはほとんど行きませんでした。最初に関心を持った数個にしぼって、その他には目もくれないという決め方です。このやり方では自分の先入観が大きく影響するので、後で実際はこんなイメージじゃなかったのにと後悔する可能性があります。もちろん、金ゼミに関して後悔したというではありませんよ! 笑
実際にゼミ生と話すことで、研究分野に関心が湧いたり、自分のフィーリングに合うかどうかも判断できます。こればっかりはゼミに足を運んでみないと分からない。僕自身がそれをしなかったことの反省から、皆さんにはそうして欲しいです。

②1年後をイメージしてみる
2〜3年間と入所時の学年によって期間は違いますが、ゼミに所属する期間は案外長いものです。ゼミを選ぶ際に漠然と決定するのではなく、少なくとも1年後の自分をイメージすると良いかもしれません。
僕自身は金ゼミでの活動を通じて、1年前よりは明らかに成長できたと感じています。その程度や基準はさておき、確かな成長を実感しています。それは、ゼミにゲストとして来てくださる社会人の方達と接するたびに刺激を受け、そういった社会で活躍されている方達に対して自分の意見を発言することを繰り返したからだと思います。当然、他のゼミにも様々な形で自分が成長するためのチャンスはあると思います。そういった事を具体的に思い浮かべて、1年後に自分がどうなっているかをイメージすれば結果的に自分が入るべきゼミは決まるのではないでしょうか。

③研究テーマを自分がやってみたいか
一言でメディアコムといっても、ゼミによって研究しているテーマは異なります。ゼミでは誰とドコで学ぶという事も大事ですが、自分が”何を”学ぶかと言う事がより重要だと最近はつくづく感じています。結局、自分が真に関心を抱けるテーマでないと、活き活きと研究に打ち込むことはできません。例えば、新聞記者になりたいとおもうのであれば、その道を研究しているゼミに入るのがベストだと思っています。逆に、これまでは全く関心がなくても、視野を広げる為に敢えて日々の関心とは違うことを研究テーマするゼミに入ることもありですが、その場合には自分が主体的に関心を持って取り組めるかどうかを基準に選ぶと良いと思います。ただ単に、人との出会いがあるからとかゼミの雰囲気が明るいから等の理由で選択をすると本当の意味での研究成果を出す事は難しいです。

以上がアドバイスですが、これは僕自身の実践から言っていることだけではなく、周りのメディアコムの人達を見て気づいた事も含んでいます。

それと、ゼミ選びは重要と言いましたが、メディアコムでは授業や、部署(研究生はメディアコムの運営の為に各部署に所属することができる)、飲み会などで他ゼミの人達と広く交流することができます。色んな人と出会えるので刺激を受けます。ゼミは重要ですが、それだけが全てではありません。あまり堅く考えすぎずに色んな選択肢をもって柔軟にゼミを決めて欲しいです。

次回は矢野ようこちゃん、お願いします〜!

2011年2月6日日曜日

新入所生へ【高橋】

こんにちは!
2011年度金ゼミ代表を務めさせて頂きます、法学部政治学科新3年の高橋沙織と申します。

これから週一ペースを目標にゼミ生(5期生)が交代制で新入所生に向けて伝えたいメッセージを更新していきます。
1年間過ごした身として、金ゼミが一体どういったところなのか、を綴っていきたいと思います。

まず、金ゼミはゼミで何をやりたいのか、自分たちで作り上げていくことができる、とても自由度の高いゼミです。
ゼミによっては予め先生が指定したトピックについて全体でやっていく、というゼミもありますが金ゼミはゼミ生主体でのびのびと取り組むことができます。
だからといって楽なゼミ、というわけではありません。当たり前のことですが、真剣に取り組む姿勢が求められます。

ゼミという場を活かすも無駄にするも自分次第です。
ただし、無駄にしたら一生後悔します。それくらい自分一人ではできないことができる場になっています。

金ゼミが何をしてきたかについてはこのブログの過去の投稿やゼミHPをご覧になって頂ければわかると思うのでここでは割愛しますが、とにかく金ゼミは『機会の宝庫』です。

知識を得たいだけなのであれば、ネットの記事を読んだり本を読んだりすれば理解できるはずで、わざわざタスクを伴うゼミに入る必要はありません。一人でもできます。
しかし、社会で活躍されている方々にお会いして意見をぶつけあって多角的に物事をみる視点を養ったり、自分の考えを他人に上手く伝える力を養ったりすることは自分一人ではできないことだと思います。また、昨年度はとある企業の新規事業案を考え役員の方々の前で発表する大変貴重な機会もありました。
そういった意味で、私は金ゼミを『機会の宝庫』と表します。だからこそ無駄にしたらゼミ生であること自体意味のないことになってしまうし、活かせたらすごく成長できる場だと感じています。

今まで自分が興味ないと思っていたことも、知ってみると案外面白いものです。知らず嫌いだったんだな、と実感することもきっとあると思います。

金ゼミには個性的な面々が集まっていて、退屈することはありません。
本当に自分に合ったゼミはどこか。慎重に選んで吟味してください。
その上で金ゼミを選んで頂けたら嬉しい限りです。

自分を成長させることに貪欲な人、刺激を求める人。「責任ある自由」を伴う場で一緒に切磋琢磨しませんか?

私からは以上です。
次は 斎藤拓也 こと さいちゃん!よろしくお願いします^^

2011年1月16日日曜日

0114ゼミ感想【栫井】

- デジタル化したくないもの

途中からの参加なので、既出のことを書いてしまうかもしれません。あしからず。

山本さんの言っていた「デジタルとは数字」ということを聞いて、考えたのが言語はデジタルか否かということ。

デジタルとは、数字で区分された表現のことで、アナログは、連続的に繋がった表現のことですね。
じゃあ【言語】はデジタルでしょうか?アナログでしょうか?
言語化とは身体を切断する行為である。言語学ではこう云います。なので、言語はデジタルなのだとわたしは考えています。
みなさん考えてるとき、喋ってるとき、ほとんど言語を使っていませんか。ということは、言語を習得した瞬間、わたしの思考はデジタル化される訳です。
誰かを思う気持ちも、「ああ、会いたいなあ」と思考した瞬間に定義上はデジタル化されるのです。
でも、誰かを思う気持ちは、「ああ、会いたいなあ」だけで構成されている訳ではないですよね。言葉に表せないもやもや感。ベッドの上をどったんばったんするような感覚。それは言語で区切ることの出来ない、連続的な【感覚】なのです。
しかしながら、感覚はアナログと呼べるのでしょうか。もう一度アナログの定義に立ち返ると、「連続的に変化する物理量による表現」とあります。(参照:goo辞書)
感覚は人間の内部にあるもので、表現ではありません。なので、アナログと呼べるかどうかという点で疑問が沸きます。

では、人間は感覚をどうアナログに表出するのか。
わたしは【行為】であると考えます。
もやもや感が溜まってベッドの上をのたうったり、「言いようの無い」嬉しさで相好が崩れたり。
人間の行為は全て繋がっていて、基本的には、生まれてから死ぬまで止まることは無いし終わりも無い。なおかつ物理的に世界に表出されたものです。
ゆえに、行為はアナログなのだと思います。(ちなみに行為を切り取る写真・映像は行為のデジタル化)

わたしは、本当に自分の思考を相手に伝えるためであれば、自分の思考から生まれ来る行為は、ひとつひとつを区切りたくない。
相手の思っていることも、全部知りたいから、行為を区切って欲しくない。
だから会いたいし、一緒に居たいとか思うのではないだろうか。

他人から見た自分というのは、どうしても区切られてしまう。一緒に居る時間は限られてるし、瞬きだってしてしまうから、行為が連続性を失ってしまう。
「思っていることは言わなきゃ伝わらない」とよく云う。それはきっと、切断された行為で表現しきれない思考を補完する役割として、デジタルツールとしての言語が適しているからなのだろう。

ライフログという発想は、他人から見たわたしの行為をアナログ(連続的なもの)に変換することなのではないかと思う。
TwitterやTumblr、Skype、Mail、Blog、YouTube、ナカマップ経由でiPhoneから検出される位置情報、etc...全部オープンIDにして結びつけて、わたしという人間を構築する行為全てを繋いでしまうと、本来の連続性を取り戻すのではないか。
因みに、わたしはこういう行為の中身はどうでも良いと思っている。
Twitterで何を書き込もうと、Mailで何を言おうと、それは結局区切られた思考=言語であってアナログじゃない。「書き込む」という行為そのものが重要なのだ。
記録の仕方はデジタルでも、結果はアナログだとは、逆説的であるけれど。

自分の行為を全部繋いで表現すること、が気持ち悪いことだと思われる人も多いだろう。もちろんわたしも全面公開にすることや勝手な商業利用には疑問を覚える。
しかし、アナログとはそういうことなのだと思う。

メールの返信が来ないのにSkypeはずっとオンライン、だったらそういう気持ちなのだろうし、
タスク終わってないのにmixiのログイン時間は常に5分以内の人は、タスクを重視していないのだろう。

そういう機微を知るのが怖いから、人間はデジタルに頼るのかもしれないな、と思ったり。
もちろん逆のパターンも大いにあり得るので、わたしはアナログに、生きたいな、と思います。

- 三田論発表会
【UGCサイトにおけるコメントの有用性】
個人的な振り返りとして、割と質問に対してさらっと答えが用意出来たな、という感覚がありました。ずっとプレゼンの質疑応答の時間が苦手で、すぐに返答することが出来ないでいたので、今回落ち着いて質問に対して「こういうことかな」と考えられるようになっていたのが、個人的な成長箇所でした。

「共有された文化」に頼っているのが現状のUGCモデルであると思います。
それが今後より発展し、多様な価値観の人が入ってきた際、如何に調整出来るか、ということももう少し掘り下げたら面白かったかなと思います。
人的な解決策の一つが、コメントではありますが。

来年度も継続してUGCモデルについて研究する予定なので、指摘された権利関係の問題も含め、今回学んだことを次回論文に活かしていきたいと思います。

【ソーシャルメディアを使った選挙活動】
2年生だけのグループとは思えない出来で素晴らしかったです。
現実性と理想を踏まえ、例示することでわかりやすいものになっていました。
個人的には、政治家を通す必要がいまいちわからなかった。政治への関心を高めること=政治家のファンになること、が頭の中でいまいち結びつかなかった。

主体が政治家なのであれば、活動ももっと政治家が中心に据わっていても良かったのではないかと思う。
例えば、SNS上のディスカッションも一政治家が主催するものであれば、ファシリテーターもその政治家がやった方が面白そう。
学生がやる場合、公平性は出るが、ならば最初から政治家の応援という背景は無しで学生主体の政治への関心を高める啓蒙活動でも良かったような気がする。

とはいえ、メンバーの実際の議員インターン体験、普段使うメディアの用例を踏まえた内容となっており、諸処にもっと根拠があったのだろうと思う。
もっともっとメンバーの頭の中の考えが知りたくなるような論文とプレゼンでした。
ディスカッションの時間がもっと取れたら良かったね!わたしプレゼン伸びてすみませんでした。

個人論文講評【栫井→矢野】

個人論文講評
矢野瑤子「Flash Marketing 現状とより良いサービスへの解決策について」

自分の考える、FMの面白さ(:SNS活用型のクーポンサービス)とFMへの問題意識(:店舗への利益の薄さ・リピーター率の低さ)をまとめた上で提案への流れが綺麗にまとめられていて、提案内容も整合性の取れたものになっていたように思います。
調査してまとめるだけでは論文とは言えないので、自分なりの考え・アイディアをそこに混ぜ込むことが論文の良さの決め手なのではないかと思っています。
一緒にmtgして出した取っ掛かりから、更に自分なりの視点を出した提案に持っていけていて、実際にPFに提案することの出来るような形に近づいたのではないでしょうか。

FMは、おせち問題も含め、今後どんどん新しいトピックが出てくる問題であるように思います。FMの大家グルーポンが購買形態を変えたり、新しい専門FMサイトが乱立したり、これからもこの動きを上手く追っていきながら、自分の提案の形もブラッシュアップしていけたら、この2、3ヶ月の意味がより持たせられるのではないかと思います。

折角今まで調べて、形にしたのだから、これでこのトピックとおさらばするのは勿体ない。自分の中で感じた問題意識(SNS活用型マーケティングであったり、WIN-WIN-WIN関係を作る方法論であったり)を今後もどこかで持ち続けておくと、自分の強みになったり、別の問題に対応するためのフレームワークに出来たりすると思います。
論文執筆経験の活かし方は様々なので、ぜひ今後の礎にしていってください。

たくさん口出しをして、ごめんなさい!
矢野ちゃんは、きちんと自分で納得出来ないと次のステップに移りたくないという子なのだろうかな、と一緒にやっていて思いました。いい加減に流れに身を任せてしまわない姿勢は素晴らしいです。時折キャパオーバーで大変だったと思うけれど、無事完成して安堵です。
ほんとにお疲れさまでした!

0114

デジタル化したくないもの!

お勤めにも関わらず、16:30~来てくださってありがとうございます!
「その意見は面白いからもう少し広げてみようか」という臨機応変かつ絶妙な司会。そして、その合間に「Kindleはアメリカで何歳代の人が一番使っているか知ってる?」など豆知識がちりばめられ、話の引き出しをいくつもお持ちなんだなぁと思いました。
そして矢野さんの今回のブログには早くも音田さんのコメントが!こうやって見守ってくださるOBの存在には感謝です。
普段デジタル化されたものに囲まれて暮らしているということにも驚きましたが、それだけでなく、「もし●●をデジタル化したらこうなるよね!」と想像できてしまうことに技術の進歩を感じました。技術的にデジタル化できるかどうか、ではなく、デジタル化したいかしたくないか、若しくはどういうふうにデジタル化すれば人々が心地良いのか、という観点で物事が進んでいくんじゃないかなと思いました。
元々は音田さんがご友人とお酒の席で盛り上がった話題だったとのこと。大学生ではなく社会人はどんな発想なのか、夜の部も聞いてみたいなぁと思いました。


金ゼミまとめ!

とは言ったものの、なかなか客観的には振り返ることができませんが自分なりに書きます。

2,3年生合同の三田論がなかった、合宿が短期&国内だったことでゼミ生が学年を越えて一致団結して何かをする機会が少なかった、一年間のビッグイベントという感じの盛り上がりがなかったことは反省点です。
毎週のタスクの達成度があまり芳しくなかったことも反省です。もっと何か工夫を出来たのかな、と今も時々考えます。
金先生がお忙しくてゼミに来られない時も、ゲストを多く呼んで頂きました。来てくださったゲストから「金先生はこういう方でね~・・・」と金先生の外部評価(?)を伺って、じゃあ”自分はここを先生から盗もう!”と参考にしたりもしました。ゲストスピーカーについてはゼミのスタイルとして賛否両論あったようですが、私は良かったと思います。あの小さい教室で自分の意見をぶつけられて、ゼミ生の反応も見られて、すごく贅沢な時間だったと思うからです。

「5期生がんばって」ということは簡単ですがやる方は大変だと思います。
それを承知でひとつ、後輩に向けて気をつけて欲しいなと思ったこと、それは「自分はゼミに不可欠な存在」だ!と多くのゼミ生に思ってもらうことです。
ゼミ生全員!とは言いません。全員!を目指さないことにも意味があると思うからです。


私は2011年に入って、2年間で初めてゼミを休みました。今まで遅刻も欠席もしたことがありませんでした。(記憶の限りは)
そして迎えた今回。一週間行かなかっただけで「あれ、今までどんなふうにゼミで発言してたっけ」とおもった自分がいました。代表ではないというポジションの変化もあったかもしれませんがそれを差し引いても、金ゼミをいつもよりも外側から眺めている自分がいました。これはゼミに限らず、どんな組織であっても「自分はここに不可欠!自分がゼミの一部!」という意識が一人ひとりにあることは、組織のカギだと思います。一昨年は”当事者意識”という言葉でよく表現されていました。

これは全出席していた時は、口にはしていたけど身を持っては気付けなかったことでした。
だから、完璧もすごいけど、完璧でいると気付けないことがあるんだって思いました。
それって特に代表という立場の人間がそういう”いろんな立場からのゼミへの視点”に気付いているべきだったのかもしれないなって思うと、これは私の最も大きな反省点とも言えます。

5期生のみんなには所信表明の時に考えてもらった「自分がゼミにいなくなったらどんな変化があるか――」という問いかけを忘れずに、そして6期生もそんな気持ちを持ってゼミに参加できるように、ということを少し頭の隅においておいてもらえたらな、って思います。偉そうなことを承知で!!


でも”金ゼミにいて良かったと”いう沙織のブログの言葉にはとても嬉しくなりました。後輩からそういう言葉が聞けたときが一番嬉しいんだな、と3年になって思うようになりました。
代の変わり目というのは一番いろいろと改革できるチャンスの時だと思うので是非一度5期を中心に何をどうしていきたいかという方向性をいろーーんな可能性を含めて”考えて”欲しいです!

李先生には、自分たちが当たり前と思っていたことを褒められたり指摘されたり、違う視点からの意見があることで新発見が多くありました。
半年間、ありがとうございました。

2010年度最後のゼミ感想【高橋】

①音田さんNC『デジタル化したくないもの』
身近にデジタルなものがあふれている今、デジタル化したくないものって何だろう。ほとんどのものがデジタル化されつつある中で、して欲しくないものって一体何なのか。自分の中で特に印象に残ったのが大賀さんと矢野さんのトピックでした。

人間とは忘れゆく生き物だからこそ、記憶に固執して記憶を残そうとする。そこから派生したお墓参りの議論がとても印象的でした。私自身は小学校低学年の時に1回だけお墓参りに行ったきりまだ行っていません。また、身近な人の死を経験していないのでお葬式にも参列したことがありません。なので、正直なところなぜ人は定期的に祖先のお墓参りに行くのかわかりません。ただ、もし行くとするならばネット上のお墓参りをするよりは自分は直接行きたいと思います。遺骨があるという厳かな、重みのある場に足を運ぶのと、いつもと変わらず机に座ってマウスのクリック一つで済ませるのとではそこに込めた「想い」まで変えてしまう気がするからです。ではその「想い」は何か。音田さんが「生きている人にとって都合の良い言い訳となる」と仰られたように、生きている人が勝手に抱いた幻想なりを都合の良いように変換させて死者へのお悔やみとしているところも否定はできないと思います。しかし、そこで生きている人が何らかの形で救われるのも確かで、また、それをすることで深まる家族の絆は素敵だと思いました。

そして矢野さんのお正月に纏わるプレゼン。年賀状はなぜデジタルじゃない方がいいと思うのか。そもそも年賀状はなぜ出すのか。私はもっぱらメールで済ませてしまうことが多いのですが、それは字が汚いというコンプレックスからメールに頼るようになったのがきっかけだったな、とふと思いました。年賀状をわざわざ買って、住所を聞いて回って全部書くのはめんどうだと思っていた部分もあります。それは数行で書かれた定型文のような年賀状をもらってもあまり心がこもっていない気がして、返さなきゃならないめんどくささの方が自分の感情を占めているからだと思います。(勝手に心がこもってないとか決めつけてるひねくれ者ですが…;)しかし、友達の地元が知れて嬉しいという見方もたしかにありだな、と思いました。日本の伝統として年賀状はあってもいいと思うが、その形態は多様であって良いと思う。むしろこれからどんどん新しいタイプの方法でできたら面白いかもしれません。

以上のように、デジタル化を基に、人間の感情に触れて「そもそも」を突き詰めるのが楽しかったです。根本を問い直すことの重要性を改めて学びました。

②三田論報告会
1. コメントが編集としての役割を果たすものとしての重要性はよくわかりました。その見せ方もスライドをカラフルに、図を多用してオーディエンスを楽しませるような発表でした。論文を読み、発表を聞いて思ったことは、確かにSNSという場だからこそユーザー同士のインタラクションでブラッシュアップしていく点はとても納得しますが、編集の過程に携わったユーザーたちの権利処理が複雑だと感じました。コメントが創作物に値するのであれば、その線引きはどうするのか。誹謗中傷を与えるだけの人、励ますだけの人、創作物に創作物でレスポンスする人など、さまざまなユーザーがいると思います。たくさんの人がコメントをしたとして、それが商業利用となって出版にこぎつけたとき、「みんな」で作り上げたものはどう権利処理されるのか。欲望の塊みたいな人だらけとは思いませんが、もしそういったプラットフォームがさらに多くの人々に利用されるようになったら、それまであった共通認識も多様化するかもしれません。ただ、そうした細かい権利の話よりも、機能性としては出版社のような役割をユーザー同士でし合うことができて面白いと思いました。

2.ネット選挙で国会議員が活動をするのは有名候補者が優勢な中でも工夫一つで話題性を生めば無名候補者でも一気にその知名度を上げることができる利点を考えれば挑戦する価値は多いにあると思いました。聞きたいことは報告会で聞かせて頂けたので、細かいとこを突くと、Skypeキャンペーンは、抽選でやることでたしかにユーザーがRTをたくさんして盛り上がるかもしれない。しかし、この論文の設定が幸泉新三郎という「イケメン」議員であることを加味すると、政治云々よりもただ「イケメン」議員と話したいというミーハーな人物が仮に当選したとして、果たして有意義な議論を交わすことができるどうか。交流会ではなくて意見交換会として位置付けるならば、事前の打ち合わせさえ「やらせ」にみえるし、わざわざUStreamでみるのに雑談・茶番はみたくないと思いました。故小渕首相がされた「ブッチホン」であれば、著名人に小渕自らが電話をかけていたという点で信用性が高いように感じる一方で、政治にあまり詳しくない層にはわかりにくい高度な内容になっていたかもしれない。このSkypeキャンペーンをどう位置付けるか明確に打ち出さないと、幅広い層を対象にしているだけにUSteramをすることの意義が薄れてしまうように感じました。ただ、今後選挙法が改正されて本格的にネット選挙活動が始動したらどうなるのか楽しみに感じました。

両班とも三田論報告お疲れ様でした。そして、お忙しい中早い時間から参加して下さった音田さんに再度御礼申し上げます。本当にありがとうございました。

③金ゼミの1年間を振り返って
タスクが多くて寝れないときもあり、ゼミの日を迎える度にメンタルやられることが多かったです。しかし、じゃあもし金ゼミ入っていなかったらどんな学生生活を送っていたか考えたとき、恐らくバイトとサークルだけで暇をしていたかもしれません。あくまで仮定の話ではあるものの、のんびり気ままに過ごし、「暇」「楽」「怠」の字ばかりが並ぶような生活になっていたと思います。この1年があったからこそ知識の面でも精神の面でも成長でき、専門書を読むことの大切さ、そして論理的に考えてそれを伝え、実際に行動する大切さを学ぶことができたのだと思います。天秤にかけなくともどちらが自分の成長に繋げられているかは一目瞭然です。共に助け合って話し合える同期の存在は大きいですし、頼れる心強い存在の尊敬すべき先輩方が集まってる場に身を置くことができて幸運だと思ってます。
『金ゼミにいてよかった』。心の底からそう思えます。そしてこの気持ちをみんなが共有できるように、互いに切磋琢磨し合える場を作るよう心がけたいと改めて思いました。
来年度に向けて5期で話し合ってどういった方向性にしていくか考えるのが楽しみです。

1年間本当にお疲れ様でした。そしてありがとうございました。

2011年1月15日土曜日

0114ゼミの感想<矢野>

★デジタル化したくないものプレゼン
音田さんの「じゃあ、○○ってデジタルでもよくない?そもそも必要?」という歯切れのよい問いかけに、一回一回その○○の存在意義を確かめながら「あぁ、たしかに」と頷いてしまいそうな自分がいた。例えば一番印象にあるのが、お墓参りはデジタル化してもいいか?という問い。お墓参りの意義を「故人に思いを馳せ、定期的に思いだして感謝すること」としてしまえば、デジタル化は問題はなく、むしろハードルの低くなったデジタル墓参りは推奨されるべきだ。Twitterで故人のbotができてしまって、いつでもその人を振り返れるようになればそれでいいのでは、という意見もあった。しかし、私はそうではないと思う。botがあってそれで満足できるのは、憧れや大事な人であっても「面識のない人」までだと思う。私個人の意見だが、お墓参りや故人を顧みるというのは、そこに、自己満足であれ「対話」の要素が含まれていると思うのだ。例えば、悪いことをして反省をした上で墓石に謝る→(生前の故人の酌量ならば)許してもらえる、と自分で判断して許された気分になる。そんな光景をテレビでよく見るが、自己満足であれ、故人と対話するには、その「偶像」と言ったら語弊があるだろうがその重々しい何か(墓石)が必要なのではないかと思った。完全に精神論であるし私の感覚ベースであるが、考えさせるものがあった。私のプレゼンでも話したが、デジタルはあくまでアナログを補うものであってほしい。墓参りや伝統行事など、人の気持ちに深く関わるようなものにデジタル化するのは反対だ。これには先ほども書いた通りはっきりとした理由があるのではない。「効率化」とか「便宜」という言葉で片付けられてしまえばデジタルが勝つに決まっている。そんな感覚ベースの「守りたいこと」だからこそ、個人個人がその日本人らしさ、人間らしさを保っていこうという気持ちが大事になってくるのだと思う。50年後もお墓参りに行きたいし、お正月を今まで通り祝いたいと深く思った。

★三田論発表
UGCの論文を読んでまず感じたのは図の分かりやすさと、図の有意性がすごく感じられること。さすがこの3人の先輩の班だな、と思い自分もこんな風にできたらいいと思った。私は実際にpixivなどのUGCサイトを利用したことがないが、@コスメなどのサイトは利用したことがあり、コメントが評価されたりとコメント側をモチベートすることが大切という点に関してとても共感できた。
ネット選挙の班で考えさせられたことは、提案していたVGP(Voter Generated Policy)の質に関してである。これに左右されすぎる政治家は必ずしも正しいとは限らないと思う。例えば、消費税の増税が争点となっている時、普通多くの市民は反対するだろう。目に見えてすぐに自分の生活が苦しくなるからだ。一方である政治家は、日本の現状を良く把握して長期的発展を考えその上で消費税増税という結論を出したとする。それに対して、短期的スパンでしかも自分の生活しか見えていない市民が意見を押し通すのはどうだろうか。(日本国民を馬鹿にしているみたいだが)そこまで一般市民全員に日本全体を俯瞰する力も思考する力もない気がする。それを鵜呑みにして迎合する政治家も困るし、市民の声が政策に大きく反映することが当然と市民が考えてしまう時代も怖いなと思った。だからVGPのGeneratedは少し危険なのではないかと考えた。しかし、有権者特に今政治活動に巻き込めていない若者の巻き込みという点に関しては素晴らしいなと思う。もしこのような候補が出てきたら自分もSkypeMに参加したいし、そうすれば自分も必死に政治を勉強するだろうなと思った。


最後に、李先生あっという間でしたが本当にお世話になりありがとうございました。
先生から、「金ゼミはイノベーションのゼミなのに、発表の場があんまりイノベーティブでない」というご指摘を受けました。確かに現状だとそうかもしれません!来期、変えていきたいところだなと強く思いました。

2011年1月14日金曜日

【ホンヨミ!】0114①ヒット商品が教えてくれる人の「ホンネ」をつかむ技術 並木裕太著【斎藤】

以前、菱木さんにぜひ読んだ方がいいよと推薦されたので、アマゾンで本書を購入してみた。
筆者はマッキンゼー・アンド・カンパニーでブランドマーケティングを担当し、09年以降はフィールドマネジメントを設立しコンサルティングサービスを提供している。

本書の目的はヒット商品の成功からデータでは読み取ることのできない、人々のホンネをつかむことの重要性を示す事である。しかし、ホンネをいかにして導きだすかという方法論に関しては丁寧に示されていないので、その点は注意しなければならない。
 
まず、ホンネを引き出すにあたって直接的に質問をむけても、相手は答えてくれない。他者に対する建前が邪魔をするからだ。相手にかっこうよく見られたい、逆にカッコ悪く見られたくない等の人の心の部分がホンネを伝える事を妨げる。

それを前提として、人々のホンネの部分にアプローチする為にはうまく逃げ道を作ってあげることが必要だ。

例えば育毛剤を売る際に、従来のデータでは、消費者が求めるものは効果であったが、薄毛に対する効果をプロモーションで全面に押してしまうと、かえって薄毛の人が購入するのを恥ずかしがり遠ざかってしまう。そこで、彼らが購入し易い逃げ道を設けておく事が求められる。
データのにとらわれてしまうことで一方通行に商品押し付けてはだめなのだ。

こういった事を踏まえて、人が持つ欲求としてが筆者が提示しているのは
①自分の恥ずかしい部分を隠したい
②自分の理解してほしい部分をアピールしたい
③他人の隠したい恥ずかしい部分を知りたい
という三つのことである。

これらの欲求をうまく捉えているのがヒット商品の要因であると筆者は述べている。
実際の商品例を引き合いにしながら本書では解説されているので、一読されたい。

個人論文講評【村山】

「Facebook Beacon Adsに学ぶSNS機能を活用した効果的な広告の手法(高橋)」


楽しく拝見させて頂きました。率直な感想は、これでも悪くはないけど、もっと良いものに出来たんじゃないかな、というものでした。

というのは、FacebookやFacebook adsに関してはすごくまとまっているのですが、高橋さんなりの提言が概念的なものに終始してしまっている気がしたからです。つまり、Facebookの概要は詳しく理解できるのですが、高橋さんの提言・仮説がもっと具体的なものであればより良かったのではないかな、と思いました。

今回、高橋さんが本論文を通して提言したかった事は、

「SNSを活用して効果的に広告を打ち出す手法とは」だったと思います。

それに対して、恐縮ながら自分はFacebookを始めとするSNSの本質は【ソーシャル】であると思っています。ここで言うソーシャルとは、「人と人のつながり」という狭義の意味でのソーシャルです。そのため、高橋さんが、分析対象をBeacon Adsにしたことは流石だと思います。この仕組みって、「ユーザー自身がメディアになる」という事ですよね。つまり、この広告の仕組みの本質がソーシャルだと思うからです。

TIME誌が2006年に発表した「Person of the year」が「You=消費者である”あなた”」でした。つまり、それだけ人々(ユーザー)は自分の友人が発信する情報を、色んな専門家やWebサイトが発信する情報よりも信頼している証拠です。これだけ、ソーシャルの力が認識されてきたからこそ、SNSを活用した効果的な広告を考える際に、Facebook Beacon adsを一つの参考にすることは有効なことだと思います。また、2010年の「Person of the year」はFacebookの創始者「マーク・ザッカーバーグ」でした。これから、ますますソーシャルの波は大きくなるという意味でも、今回の研究は意味があるものだと思います。

ただ、SNSを活用した広告を考える際に、その本質がソーシャルであるからこそ、もっとアプリ内広告に注目しても良かったのかなと思います。SMSのビジネスモデルは「広告収入」か「アプリ内課金(アイテム課金)」ですが、後者の占める割合が今後ますます増えると言われています。更に、アプリの本質もソーシャルであるからこそ、アプリを活用した広告の在り方は今後もっと重要になってくると思います。

最後のまとめも良くできていますが、冒頭にも書いた通り、概念的なものよりもっと具体的な提案が出来たら尚良いと思います。(まぁ、それが難しいんですけどねw)

とは言え、まとまった良い論文だったと思います。お疲れ様でした!!

もしソーシャルメディアを使って選挙をしたら【金光】

もしソーシャルメディアを使って選挙をしたら 
吉田、大関、齋藤、岡本 著

論文、と聞くと身構えてしまうけれど、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーのマネジメントを読んだら』から案を得た、この作品は一気に読み切ってしまった。特に最初のつかみ方は小説か!と思うほどぐっとひきこむ滑り出しだった。

中に登場するソーシャルメディアも、最初は日本ではおなじみYahoo!知恵袋から始まり、mixi,twitter,2ch,skype,ustreamと幅広く網羅している。自分たちが普段からよく使う、なじみのあるサービスを当たり前のものととらえず「これを選挙活動に使うにはどうすればいいか?」「何をどこで使うのが国民にとっても候補者にとっても便利なのか」という視点から改めて見直し、丁寧に説明されているところが本論文のもっともすぐれたところだと思う。mixiを使う人、twitterの公式アカウントに日ごろから触れている当事者の肌感覚を反映させた文献は少ないと思うので、”社会を新しい視点で斬りこむ”ことができた論文ではないだろうか。

論文前半に比べると後半はややデータが少なく、推測に頼る展開の印象を受けた。なぜ2chではあまりうまくいかなかったのか、政治的話題であまり盛り上がらなかったという他の前例があるのか、もし参考にした例があるなら挙げて欲しいところだった。
また全体的に読みやすいがゆえにどこまでが話の展開でどこが考察の部分なのかが分かりづらいところがあった。まずは読んでもらうための工夫であり、筆者の意図的ではあるものの、章が変わるごとにその章のまとめをつけたら、より学術性も高く調べた内容が読み手に伝わるものになったのではないかと感じた。
もう少し欲を言えば、選挙をしたら の次は~政治活動をしたら(現役政治家がまだ気づいていないソーシャルメディアの使い方)編~を読んでみたい。幸泉新三郎のその後の活躍が気になる。

2011年1月13日木曜日

個人論文論評<矢野>

「違法ダウンロードと映画」黄秀仁

近年法改正がなされてごちゃごちゃしているコンテンツの違法問題について分かりやすく述べてあってよかった。また、論文に一貫して、「このままでは映画界が崩壊してしまう」という警鐘がメッセージとしてあって、読んでいてこのままではいけないと私自身も強く感じさせられた。
形式的なところで指摘すると、目次と資料の出典を明記した方がいいと思った。
中身の部分に入ると、概要は黄さんの文章力、語彙力が光っていて、先が読んでみたいと引きつけられた。2章に関しても、現状がきちんと整理してあって、読者の頭の中でもきちんと整理ができた。ただ、せっかくなので黄さんの解釈だけでなく、改正された法の条文を抜粋して載せても良いのかなと思った。3章に関してはグラフを作ってあって視覚的に分かりやすい。ただ、所々に%のデータの記載があるが、これは一番最初のデータ100社中61社、というもののデータなのか、何を100としたパーセンテージなのかがはっきりわかるといいと思う。4章の対策は、警察・政府など立場ごとに切って簡潔に書いているところが分かりやすくて良いと思った。
全体としてとても簡潔に分かりやすくまとめてあって、現状の問題点がどこにあるのかということが読みながら理解することができた。ただ最後に一つ言うならば、黄さん自身の提案、この問題の解決の仕方、意見が提示されているのが、本章の中では4-3の最後であったりと少ない気がしたので、現状分析、課題抽出からのその先の部分を読んでみたいなというのがありました。

各章の分量・重さも合っていてバランスが取れている非常にわかりやすい論文だと思いました。
おつかれさまです!

ホンヨミ! 【黄】影響力の武器 なぜ人は動かされるのか

影響力の武器 ~なぜ人は動かされるのか
ロバート・B・チャルディーニ著

①影響力を受けるパターン
本書では心理学的な体系立てに基づいて、人がどのようにされると影響を受けるのか、逆にいえば人に影響を与えることができるのかにおいての分析を試みている。しかしながら、主な論点は、どのように人を動かすかという点よりは、我々が無意識のうちに取ってしまっている行動パターンを把握し、それによって被っている損害を減らそうというところに見受けられる。無意識の行動というのはつまり、普段効率性を優先するあまりにあまり吟味せず遂行されているすべての活動が含まれるだろう。主にそのパターンは6つに分類されており、多様な実験結果や実例を伴った主張が展開されている。

②6つのパターン
「返報性」、「一貫性」、「社会的証明」、「好意」、「権威」、「希少性」。このようにただ並べるだけだとイマイチピンとこないだろうが、どれもかなり一理あるな…と思わせる説得力がある。例えば、一貫性の例としては朝鮮戦争が述べられている。当時、捕虜になった米兵に対して中国がとった行動、そしてその結果は一貫性の力の存在を認めざるを得ない強い共感を呼ぶ。ほかにも例えば好意に関しては、つまり、好意をある要因で誰かに持つと無意識のうちにその人を優遇してしまう属性が我々人間にはあるということ。それは外見の魅力や自身との類似性、接触回数の数など、様々ではあるが・・・・。厚い本の類には入るだろうが、自身を振り返るという意味でも一度読んでみることを薦めたくなる一冊だ。

個人論文講評【高橋】

『Flash Marketing 現状とよりよいサービスへの解決策について』 矢野瑶子(著)

Flash Marketingとは何なのかを自分の言葉を加えて再定義しているところは、FMのことをよく知らない身としてとてもわかりやすかった。また、相関図を自分で作り、視覚的にも内容を追いやすいものだった。
気になった点としては、途中に出てくる計算された表は計算式がなくて算出された数字が不透明な箇所があった。何かを基に算出したのであればその基となるところを示してあると信憑性が増すと思った。
また、注釈をいれていないため、引用箇所は注釈でサイトから引用したのであればどのサイトなのかを明示した方がより論文の形式として良いと思った。
それでも、内容は興味深いことが多く、具体例を用いて分析していることで読み手は非常に内容を追いやすくなっている。また、具体的な新しいビジネスプランが練られているところが良かった。楽天ポイントを参考にSNSの活用を促しているのは説得力があって、ポイントの管理を上手く運営することができたら本当に成功し得るのではないか、とも思った。
敢えて欲を言うならば、アメリカで成功しているモデルをもう少し掘り下げて、どうやって三者のバランスを保ってるかの研究を加えてもよかったかもしれない。実際に成功しているビジネスモデルを深堀して日本の改善点を明示するとより説得力が増すのではないだろうか。

全体的に読み手が理解しやすい内容で、視覚的にもカラフルで読みやすかった。年明け早々話題になったトピックだけあって、今後もさらに知りたい分野の一つである。

矢野氏、お疲れ様でした!

2011年1月12日水曜日

【ホンヨミ!0114】OGILVY ON ADVERTISING【高橋】

『OGILVY ON ADVERTISING』 Vintage Books

David Ogilvy (1911-1999)... 「広告の父」と称され、広告のモラルと創造性の領域を広げた人物として知られるイギリス出身の広告界の重鎮。

①Positioning
Ogilvyにとって、宣伝するもののpositioningを決める基準は"what the product does, and who is it for"であるという。例えば、彼がDoveの石鹸の宣伝に携わったとき、働く汚れた男性が手を洗うときに使うものとしてではなく、乾燥肌の女性がお風呂で使う石鹸というpositioningを加えてbrand imageを確立させた。彼にとってbrand imageとはそのもののpersonalityであるという。
金ゼミをブランディングして新入所生にアピールすることに当てはめて考えると、「私たちが何をして、何のためにいるのか」を明確にして考えることだ。根幹をなすべき初歩的なことかもしれないが、この軸がぶれたり定まっていなかったりすると伝えたいターゲットに半分も伝わらないのだろう。

②Big idea
どうやったらデカいアイディアって考え付くのか?そもそも「デカいアイディア」って何?Ogilvyは考えた。それが以下の5項目だ。

1. 初めて見たときに息をのんだか?
2. 自分で考え付くことができたらなぁと願ってしまうほどのものか?
3. ユニークか?
4. 完全の域に達するほどのものか?
5. 30年間使われるものか? (実際は5年続くものさえわずかなのは承知の上で)

この項目すべてがみたされて初めてすごいアイディアになるのだと彼はいう。身の周りに溢れている広告。この条件に当てはまるものは考えられるだろうか。
*ちなみにOgilvyの時代では日本の広告はまったくと言っていいほど世界に知られていない。アジアで唯一有力視されていたのは中国だった。

③Marketing in recession
不況になると即座に削減されがちな広告費。しかしOgilvyはそういった浅はかな行為に警鐘を鳴らしている。1922-1977間の景気後退のデータが載せられていて、広告費を削減しなかったところは不況を脱した後好調になったが、広告費を削減したとこは低い利益しか上げられなかったという。現代に比べてデータが古く、ネット社会ではなかった点は当時とまったく違うので参考にできるかは疑問が残るものの、企業が安易に広告費を削減してしまうのも気になる点だ。
本著で使われていた例として世界第二次大戦下のUnileverについてだ。当時イギリス政府はマーガリンをブランドの名前を用いて売ることを禁止していた中、Unileverはたとえ店舗に自身のマーガリンが置かれていない時でも自身のブランドを堅持して宣伝し続けた。戦後ブランドが復興した時、Unileverがトップに君臨したのだという。

今も尚続いている企業も数多く載っていて非常に面白かった。広告における女性の用いられ方の変遷にも言及されているため、初期の頃の写真はなかなかきわどい写真が多い。そう、色々な国の昔の広告・ポスターの写真がカラーで多く掲載されているのも本書の特徴で、読んでいて楽しいのだ。

2011年1月11日火曜日

ゼミの感想0111<矢野>

☆フリーペーパー
みんなのアイディアに非常に刺激を受けました。特に吉田君のアイディアは読んでみたいなと思いました。日本のニュースを外側から知るには、最低でも英語の文献を読まねばいけないので(読むべきなのであろうが)ハードルが高く、「気軽に読める」ものではない。英語圏以外の文献はなおさらである。自分自身も去年やおととしに海外で現地人と話をして、「日本ってこんな風に見られているんだ」と意外性に驚いたことがいくつもあったので、そのようなフリーペーパーがあればきっと役に立つと思う。だれに広告を打ってもらうのかという問題があるが。
また、李先生の「もらう側に立った視点」が私たちには欠けていたのかなと思った。

☆アクティビティー
ゲームとしても楽しかったがそれ以上に得るものがあって興味深かった。難しい言葉(パブリックディプロマシーとか)だと、うまく説明できない自分がいて、理解の足りているもの足りていないものの差がはっきりわかった。特にメディアの用語は論文でもはっきりと詳細に定義するようにと言われているように、ぼやぼやしているものが多いので一言では説明できない。あのゲームのルール上他の語とはっきり差異化しなければならないのでその意味でも難しかった。前期のゼミで金先生が「プラットフォームって何?」と訊かれて自分自身よく使っていたのに答えられなかったのを思い出した。実際に自分の口で説明してみると「あれ、この言葉はこれを含むのかな?」などというのが多くある。特にカタカナ語はこれからも注意して使っていこうと思う。


新年会では李先生と打ち解けた場で交流できてよかったです!ロマンチストな一面も垣間見れて良かったです。今週金曜日のランチも楽しみです!!残り少ないからこそ、来週のゼミもより大切にできたらと思います。
そして近々5期生で金ゼミ人事部が発足するのでそちらの方も楽しみです。

2011年1月9日日曜日

0107ゼミ感想【高橋】

①ゼミ感想<フリーペーパー>
5期生主導初のゼミ。時間配分が本当に難しくて、大体の時間を予測して進めていくのがまだ出来ていませんでした。フリーペーパープレゼンと新年会の間の時間が中途半端だ!と困っていたときに直前の4限の間にふぁんちゃんに相談して考えたレクリエーションでしたが、なんとか楽しんでもらえたようでよかったです。仲間の力の偉大さを改めて実感しました。
ゼミの時間をいかに有効的に使うか、何をすれば生産的なことができるか、とても頭を悩ませますが、その反面楽しいとも感じます。「予定通りにいくことはまずない」とBNGのときに藤田さんが言っていた通り、大抵のことは予定通りとはいきません。それでも結果としてより良い方向に向かうようにしたいです。
今回の反省点はせっかくプレゼンをしたのにゼミ生同士のフィードバックのし合いをゼミ中に挟めなかったこと。自分がまだ力んでしまっていました。冷静にならないと対処の仕方が見えてこないのと一緒ですね。以後気をつけます。

プレゼンの方ですが、フリーペーパーということで内容は人それぞれ自分の欲しい!を形にして多様なものが出揃ったと思います。ただ、李先生がおっしゃったようにクリエイティブさを足しても面白かったかもしれません。正統派すぎたというか、フリーペーパーそのものの内容にこだわってしまったため、紙媒体は大前提となってその媒体自体を一工夫させて価値観を変えさせるくらいのものを提案してもよかったかもしれません。自分自身考えなかった視点だったのでそれをとりいれても面白かったなぁと思いました。

②新年会
小宮さんお手製の質問BOXを使って李先生に質問する、というコンテンツ面白かったです。まじめな質問から恋愛についての質問などあって、プライベートなことまで知れました。李先生の誠実なお人柄がよくでていました。お話させて頂く機会が少なかったこともあり、もう少し前から色々お話できていたらと思う限りです。焼き肉もおいしくてついついたくさん食べ過ぎてしまいましたが、みなさんとおいしく食べて飲める空間が本当に好きです。交流を深めつつも充実した締まりのあるゼミを今後も共に作っていきたいと思いました。
色々と企画してくださった幹事の小宮さん、ありがとうございました!そしてお疲れ様でした!

冬休みホンヨミ③<矢野>

『たった1分で人生が変わる 片づけの習慣』小松易著(中経出版)

金ゼミとは直接的に関係はないだろうが、先ほどの「プレイフル・シンキング」と関連して、自己啓発本・ハウツー本として思うところがあったので、書評として挙げさせていただく。一部内容を悪く言っているように見えるかもしれないが、これを書く目的としては、どうしてハウツー本がどうして簡単にヒットし、本屋で平積みされてはブームが過ぎ去り掃いて捨てるほど日本中に溢れるという社会現象が起るのかを本の内容から考えてみたかったから。
一つ大きく感じたことは、当然かもしれないが、ハウツー本というのはたいてい一つの形式をとっているということ。全体の流れを順を追ってみていきたい。
序章:この本(または内容)のすごさを盲目的に評価する、そしてその実行がいかに簡単かを根拠なく主張する。この時に「あなた」という代名詞を使用して、なるべく読者が「自分」に置き換えられるようにもっていく。
前半:序章の具体化。この本の目的遂行がどんなに素晴らしいことか、読者の現状を変え得るかを主張する。使われている手法を例として挙げたい。「~でも○○できる」→「~できないと○○できない」の置き換え。この本を引用すれば、初めは筆者の体験をもとにして、「(旅行先で感じたこととして)荷物や持ち物が少なくても充実した日を遅れた」と語っていたのにいつのまにか同様の文脈で「荷物が少なくないと充実した生活を送れない」となっている。先ほどの詭弁論理学の記述を引き合いに出すのがちょうどよい。これこそ「詭弁」である。このような中で、情報リテラシーを欠いた読者は鵜呑みにしてしまい、「これ(本の内容)を達成しなければ」というマインドセットが簡単に起る。そして後半の実践方法の紹介をさわりの部分だけ語る。
後半:実際のやり方。こう考えるとここがこの本のコアであるはずなのに非常に分量として少ないことに気づく。
だいたいこのような順序で書かれている。
しかし読み終わってみると、著者の主張に浸かった自分がいるのである。この後半部分の本質だけではここまで染まることもなかっただろう。前半の洗脳はすごい効力だ。この洗脳がいかにうまくできるかがハウツー本の「効く・効かない」「役に立つ・立たない」をつかさどっているのかもしれない。ただ、この状態に陥るのもつかの間、すぐに生活の忙しさにまみれて忘れてしまう。ハウツー本の効力には使用期限があるのだなあと感じる。これが冒頭に書いた社会現象を生み出す要因だろう。今回は「片づけ」というテーマだったからつべこべ言わずこの主張に染まるに越したことはない(片付けが正しいことは自明の理だから。)ただ、二項対立になりうるテーマだった場合には注意が必要である。思考回路を著者が自分のそれと同じくするために本の上に道筋を書いてしまっているからである。読んだ後冷静になってしまえばハウツー本の意味がなくなってしまうわけだが、それなりのリテラシーが読者にも必要だろう。

冬休みホンヨミ②<矢野>

「プレイフル・シンキング」
新年には持ってこいの本。
何かタスクがあってそれをこなす時にただ「つまらない・面倒くさい」と嫌々やるのではなく、自分で付加価値を付けて成し遂げることができたら・・・。この本を読んで最初は難しそうだと感じたが、実際そうではなかった。私が難しそうと考えたのは、そのタスクに割ける時間は限られているから。時間がたっぷりあったら付加価値を付けてみたいという願望はあるけれど、実際に限られた時間の中でのアウトプットが「それ」なのだとしたら新たに時間を割けるかどうはその時によるかもしれない。この本の最初の方では理詰めで考えていて半信半疑だったが、ふとしたひらめきから実践してみると意外にも簡単で楽しかった。具体的に述べると、私の団体では毎週メンバーが集まって、皆で話し合いを行ったりプレゼンを行うミーティングがある。それは主に私たち役員が運営するのだが、毎回改善のためにメンバーにアンケートを紙媒体で行うことにしている。それを作って印刷するのが私の役目なのだが、どうもその作業に面白みがなかった。セッションの担当者から質問項目を募り、それをまとめて版を作り、印刷するだけ・・・質向上のために欠かせない要素ではあるが、毎週ともなると面倒な作業である。そこのこの「プレイフル・シンキング」を入れようと思いついたのが、質問項目に全くミーティングの質問と関係のないことを入れて面白くして結果を公表するのだ。例えば「最近恥ずかしかったことは?」だったり「好きな人はいますか?」だったり・・・アンケートを今まで面倒だと適当にしか書いてくれなかったり、書こうとしないメンバーも興味を持って楽しんでアンケートを書いてくれるようになった。このように実際かなり「使える」そして何より読んでいて楽しくなるような本だった。

2011年1月8日土曜日

ゼミ感想【黄】

①新年あけましておめでとうございます
年が明けましたね。韓国では新年に皆で一緒に年をとるので、新年になるとやたら年齢の話をする寂しいシーズンです。なにはともあれ、どうなる事かと思った5期生の主導の第一回金ゼミ。まだまだ不慣れな場面はあったにしても、私個人としては上出来だったと思います。
もちろん、まだまだこれからが正念場ですけどね。
新たな年を迎え、たくさんの変化が待ち受けているであろう今年も、全力疾走しよう!と気が引き締まったゼミでした。

②フリーペーパー
正直言うと今回のプレゼンはギリギリまで決まりませんでした。というのも久しくプレゼンを準備していなかったせいか、勘が鈍った・・・とでも言いますか・・・。おまけに金ゼミでやるんだから、新たな形のフリーペーパー?電子書籍ペーパー?次世代フリーペーパー?とかなんとかと背伸びばかりしてたら自分のやりたい本質が見えなくなってしまって。回り道をさんざんした結果、自分がやりたいのをやろう!という結論に。最初からそうしてればよかったんですけどね。2、3週間悩んで、この結論に達してからスライド完成までにかかった時間はおよそ1時間。自分がワクワクできる事。これがやはり鉄則ですね。

③李先生を囲む会
久しぶりの焼き肉。調子に乗って食べ過ぎてしまいました。それから、やはり李先生に集中的にお話を聞けたのもすごく良かったです!もっと早く開いておくべきでしたね。これは私自身への自戒の念を込めて・・・。たくさんの素敵な方達との出会いは、アグレッシブに深めていかないともったいないと思うし、それは自分から動かないと何も始まらないですしね。次からは自分で率先して動きます。それから幹事を務めて下さった小宮さん。お疲れさまでした♪♪

冬休みホンヨミ①<矢野>

「詭弁論理学」
前回ゼミで紹介していたのですが、書評として書いていなかったので書きます。
前半では詭弁の紹介をして、いかに詭弁が面白いかが書いてあり、筆者は詭弁を使うのを勧めているのかとさえ思ってしまった。「論理のすり替え」だったり「強弁法」だったり・・・この後のホンヨミ③でも書いたが、大げさすぎると笑ってしまうような「詭弁法」も小出しに使っていけばうまく物事を逆に解釈させることさえできる。またこれは結構多く転がっているので気付くことなく読んでしまうし、簡単にだまされてしまう。文章に対して「これは本当か?」と精査する時に論理学は使えるツールだと思った。

今後、新聞・テレビなどのマスメディアから受け取る情報はどんどん少なくなり、個人の発信したものを読む機会が増えることであろう。(例えば、プロの新聞社が取材して取った文章ではなくて個人が発信したニュースへ変わっていくというようなこと)そのような中で「メディアリテラシー」の一環としての「論理学リテラシー」が必要になってくる気がした。「詭弁じゃないか」今後ネット社会において再び論理学が見直せれる日も近そうだ。

2011年1月7日金曜日

ホンヨミ0107②プロフェッショナル達の脳活用法【斎藤】

『プロフェッショナル達の脳活用法』(著)茂木健一郎

本書で関心を持ったのは、制約とのつきあい方について描かれた章だった。
では、制約とはなにか。本書では、現代にみられる多重文脈性によって人がそれぞれの文脈において、それぞれの役を果たさなければならなくなり、結果的にこの役ではこのようにあるべきだと自らに制約をかけてしまっている状況のことを表す。

はたして、昔の時代では本当に制約が存在しなかったのかという議論が十分になされていない感は否めないが、現代におけるIT技術によって一人の人間が関わることができる領域が広がり、かえって多分化を引き起こし人間の脳にストレスを与えていると分析されている。そもそも、脳科学的には人間の脳は一つの事に集中して全エネルギーを傾注することを得意とするらしい。

また、生物の脳には一定の状態を保とうとするホメオスタシス(恒常性)の働きがあり、それにより体温、脈拍等の変化を元に戻そうとするらしい。つまり、生物の脳は本質的に固定概念にとらわれがちなのだが、人間は例外的にそれからダイナミックにはみ出すこともできるため、その能力に長けた人物達が開拓者と呼ばれるようになるのだろうと述べてある。そして、固定概念にとらわれないことが結果的に先に述べた文脈にとらわれないことにもつながる。

具体的な考え方をあげると
-専門性を高めることは仕事を分割することでなく、むしろ全体を見失わずにバランスを とるために専門だからこれだけしかしないと思わない。
-ずっと同じところにいたらそれが当たり前と感じるので、絶えず新鮮な目で問題意識を持つ。
などがあるが、そのなかでも自分自身のなかで確固たる軸を持つ事の重要性を示している。人間の脳は確かなことと不確かなことの間でバランスをとるので、ある軸がなければ不確かな事にチャレンジできないのだ。

以上のような事柄が本章には述べられている。
私自身は個人的に活用法など〜法とつく本を読むのが大嫌いなのだが、受験時代に参考にしようと思い本書を買った。そして、今回帰省したときに再度読んでみたのだが、あとがきの部分で茂木さんが述べている頭がよくなりたいという願望は太古の昔から人類が抱きつづけ、その方法論が貧欲に追い求められてきたという部分に共感できた。

太古の時代でも、その時代のさまざま制約のなかで、文明を発展させてきたのだから人間は制約のなかであってもさらに何かを進化させる、あるいは自身が進化する能力を持っているのだと思った。

ホンヨミ0107①プロ弁護士の思考術【斎藤】

『プロ弁護士の思考術』(著)矢野正秋

本書では思考することの重要性を説いている。その際のポイントとして
一、抽象的ではなく具体的に考える
二、計画、思考の手順をたてる
三、行動は思考を弱める
以上の点をあげている。

まず抽象的に思考することの弊害は個々の事例を一般化してしまい、機械的にものごとを判断してしまうことである。当然のことながら社会の出来事はどれもが個別の具体的な事例であり、それぞれが異なる事実である。この事実をどこまで詳細に把握できるかが思考する上で重要となる。にもかかわらず、詳細を正確に把握しないまま、情報の不足を棚上げして事実を一般化してしまえば、後に決定的な誤解を生み出してしまう。ここではできるだけ、個別具体的に事実を認識し、情報がもしも不足しているならば不足しているという事実を認識した上で思考することがポイントとなる。

また、本書で引用されている数学者であり哲学者でもあるゴットフリート・ライプニッツのが定義した連続律の考え方も重要だ。自然は飛躍することがない、つまり、あらゆる存在は独立した単独の個々ではなく連続しているのだと筆者は理解している。この理解の助けとしては死について考えてみると良い。人間はいきなり生から死の状態になるのではなく、ある過程を経て生から死に至るのだ。これは、全ての事象が対極に位置する二項の対立によっては表しきれない事を示す。

これは先に述べた具体的に思考することにも関連する。状況が完全に把握できたか、できていないかの極論によって思考するのではなく、なるべく完全な状況に近づける姿勢を維持する必要があるのだ。人間は足りない情報を補完して一般化してしまう傾向があるのでその点について注意しなければならない。

また、感情に流されない思考をするために、物事を順序だてることも求められる。突発的な感情に突き動かされてしまえば具体的な事実について思考することができなくなるからだ。感情による思考を排除することの意義は無理な精神論に至る事を防げる点にある。やればできるといった精神論にもとづく思考は、最初は勢いがあっても最終的には脆いものだ。

2011年の抱負<矢野>

明けましておめでとうございます。

今年の抱負・・・・・
「早寝早起」
でゆきたいと思います。

あまりアカデミックではないのですが・・・しかし、適当に選んだわけではないのです。
初めは「磨穿鉄硯」でいこうかなあと考えていました。「強い意志をもち続け、物事を達成するまで変えないこと。また、学問にたゆまず励むたとえ。」という意味です。理由は、勉強しようと思ったから。大学に入って自分で言うのも変ですが、私は幸いにも素晴らしいコミュニティーや環境に恵まれていたと思います。
金ゼミ然りサークル然りバイト然り・・・・。話を聞いていると自分も頑張らないと!、と思うような人たちがたくさんいたし、素晴らしいコミュニティーに属していたことで、自分自身のアウトプットの場も多くあったと思います。そんなこともあり、今までの大学生活はよく「動いていたな」と思います。良い経験の機会を与えてもらってもさして振り返って考えることをせず、また次の機会が降ってくるから飛びついてそれをものにしようとする・・・なんだか若干中途半端だなとは薄々感じていました。体だけはよく動いているような状態だったと思います。今年、おそらく私は就活をすることになるでしょうが、これを経たらもうすぐに社会に出てしまうんだなーそう思った時に自分の今の脳みそじゃ恥ずかしいな、と思いました。体だけではなくて頭も動かせるようになりたい、というか頭で考えてから無駄なく行動したい、と思いました。それにはもっと知識が必要だと思いました。脳みそを肥やしたい。考える行為を意識的に行うこともですが、具体的に言えば学問だったり語学だったり読書だったり。こういたことを少し落ち着いてやりたいと思っています。あと、個人的にもう少しサブカルチャーに詳しくなりたい。映画とか好きだけれど時間がないのを理由に見ないし、韓国で韓国の子にワンピースを熱く語られたのに何もついて行けなかった。なにか人間として深みがないなあという問題意識があります。


といっても、今動いている足を簡単には止められないし自分も止めたいとは思えません。


ではどうするか、


時間を作るしかない。


自分の中で無駄な時間って何だろう、
いや、無駄な時間以前に起きる時間寝る時間がばらばら過ぎてもはや分析不可能。


「そうだ早寝早起きだ」


これがお正月の結論です。





2011年の抱負【村山】

【臥薪嘗胆】

でいきます。

意 味: 復讐のためにあらゆる苦労や悲しみに耐え忍ぶこと。成功を期待して苦労に耐えること。(出典:四字熟語データバンク)

別にネガティブな訳ではありません(笑)言葉からはネガティブな印象を受けるかもしれませんが、その気持ち
によって生まれる結果は、非常にポジティブなものだと思っています。

電通の岸勇希さんも、以前こんなことをTwitterでつぶやいていました。

「劣等感がない奴に興味はない。差と歪みの埋め方にエネルギーが眠る。」

当たり前のことだと思いますが、誰でも一度くらい勝負で負けたことはあると思います。その時、自分に自信があればあるほど、受けるダメージは大きくなると思います。でも大事なのは、その後に何を想い、どう行動するか、だと思います。

「差」や「歪み」はネガティブな感情かもしれないけど、ネガティブな感情であればある程、個人のやる気が
刺激されるのではないでしょうか。

負けたときに「悔しい」と思うのは普通なことだと思います。むしろ、逆の場合であれば、それはその人にとって
かわいそうな事だとも思います。それは、目の前の現実から目を逸らしているだけだからです。

悔しい想いは放置するのではなく、自分の中で熟成させ、「ここぞ!」という時にその力を発揮できる様に
常に準備している事がとても大事だと思っています。

特に今年は、色んな意味で負けを痛感する機会に恵まれると思うので、それを単に苦しいことだと受け止めるのではなく、
その都度、「この想いを無駄にしないためにも、次にどう行動しよう」という様に、前を見続けていきたいと思います。

抱負【斎藤】

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくおねがいします。

今年の抱負を掲げるにあたって、虚心坦懐をあげたいと思います。
心にわだかまりを持たず、素直でさっぱりした気持ちでいる無心で平静な心境。
そして、偏見がなく、心を開いていることを表しています。

今年も多くの事柄に直面するでしょうが、そこで迷いたくないと思います。
些事に迷うのではなく、腰を据え心を穏やかな状態でじっくり悩む。
微妙な違いではありますが、この事を念頭に2011年を過ごしたいと思います。

冬休みホンヨミ③ 『ブランド 価値の創造』 【岡本】

『ブランド 価値の創造』石井淳蔵

読んでてかなり頭がこんがらがってくる本。新書だと思って軽い気持ちで読んでいると間違いなく文脈が追えなくなるというなかなか重たい一冊。「ブランド」という、当たり前のように転がっていながらその実「形のないもの」を構成する様々な要因について、事例とともにかなり詳細かつ独自的な分析を加えていて、難しいが面白い。

①「プリッツ・チョコ」ではなく「ポッキー」
「ポッキー」は「ポッキー」だからこそロングセラーとなったのであり、仮に「プリッツ・チョコ」として(「ポッキー」は開発サイドとしてはそもそもプリッツの系列品程度にしか考えていなかったらしい)発売していたらこれほどのロングセラーとはならなかっただろう、という著者の視点は非常に面白く、かつ本質を突いているように思われる。つまりブランドは「固有名詞」であることが大事なのであり、系列品であれば「ポッキー」に注がれたような相次ぐ新機軸の導入はなされなかっただろうし、それ故にこれほどの成功も収めなかっただろうと。もちろんそれだけでは足りないが、ブランドであることの必要条件が「固有名詞であること」というのはなかなか言い得て妙という感じがした。

②スタイル的価値にも機能的価値にも還元されない『ブランド価値』
かつて「ニューコーク」がテイストの改善(=機能的価値の改善)によって「オールド・コーク」に取って代わることがなかったように、あるいはまた「イッセイ・ミヤケ」ブランドが氏自身の作風の変遷(=スタイル的価値の変化)によって価値を無くさないように、「ブランド価値」とは特定の「何か」に還元される価値ではない。ブランドとは消費者おのおのの人生の一瞬一瞬でそのブランドが傍にあった、といったような遥かに曖昧な基準によって支持されるべきもので、「味が良い」とか「汚れが良く落ちる」とか「音質が良い」といった相対的な特徴は「ポジショニング」や「コンセプト」でこそあれ、ブランド価値の根源たりえないのである。

③単なる群集心理では説明され得ない「ブランド」
ブランドというのは「価値があると感じる人々がいてこそのブランドであり、そのような人々が一斉にいなくなれば全くの無価値になる」という共同幻想や群集心理的なものではない、と筆者は説明する。というのも、ブランドはその名を冠した商品群と支え支えられる関係にあるからだ。特定のシチュエーションやユーザー層を想定した、一見して無関係な商品をカテゴライズし定義づけるのがブランドであると同時に、ブランドもまた、それにふさわしい性質を持つ商品群によって確固たる地位を確立する。その意味で、ブランドは形無き故に幻想であるという主張はナンセンスであり、形が無いにもかかわらずそれを支える商品によって社会的存在という性質を帯びるのがブランドなのである。

冬休みホンヨミ② 『上達の法則』 【岡本】

『上達の法則 効率のよい努力を科学する』岡本浩一

一つのことをただひたすらに無心で、一心不乱に打ち込む…本書を読むと、そのような体育会系の根性論が必ずしも「効率的」ではないことが分かる。もちろん一つのことを極めるのに手間と努力と時間が必要なのは認めるが、努力の効率化によって、根性論で一つのことを極めるのと「同じ時間で」2つのことを極めることも出来る。決して多くはない時間の中で、努力もまた「頭を使って」すれば、より多くのことに精通できるのであり、本書は主として脳科学・心理学の観点からその仕組みと方法を教えるハウツー本である。効率の悪い努力を費やした時間の長さで補完するのか、効率の良い努力で余った時間を他のことを究めるのに費やすのか。もちろんそれは人それぞれだが、時間はやはり有限だ。

①一芸に秀でることは多芸に秀でること
同じ時間を費やせば誰しもが同じ域に到達するわけではない。自分の身の回りにも、何年やっても一向に上達しない人がいると思えば、少しやっただけで何でも器用にこなしてしまう人がいる。ではそのように人を分ける要因とは何か。本書の冒頭で筆者はその要因を「上達の法則にかなっていたかどうか」と分析する。具体的な方法論についてはぜひ本書を一読して頂きたいのだが、本書に書かれているような上達の法則を体得するには「まずは一芸に秀でること」が肝要となる。多芸に秀でる人というのは、中でも特に一芸に秀で、それを体得したノウハウを一般論に昇華し、上達を必要とする様々な場面に実践できている場合が多い。

②自分なりの「好き」を見つける
楽器の上達なりスポーツの上達なり、どんなことでも初期の段階で自分が「好きだ」と思える「特定の何かにこだわりを持つ」ということが重要だと筆者は語る。たとえば音楽なら速い曲が好きだとか遅い曲が好きだとか、あるいは特定のコード進行が好きだとかそういう細かい部分も含めて。「好き」というのは脳の認知プロセスの中でその部分が「意味あるものとして処理(有意味処理)」されている証拠であり、それにこだわりを持つことは、あらゆることの上達に不可欠な「全体を有意味処理すること」の端緒となるからである。

③後退しなければ前進している
技術の修得には、時として多大なる忍耐を必要とする時期が存在する。いわゆるスランプというものだ。これは初級者が中級者になるときよりも、中級者が上級者になる、あるいは上級者がさらに技術を高次に磨いている間に起こりやすく、かつその期間が長期に渡りやすい。成長がピタリと止まってしまうために大きな不安を感じるこの停滞期間は学問的に「プラトー」と呼ばれるのだが、これはどんな技術の修得にも当然に見受けられる現象なのだそうだ。筆者が提唱する、そんな時期に有効な呪文が「後退しなければ前進している」というもの。一番やってはいけないことがその時点で努力を放棄することであり、現状の実力を維持できる程度の努力を続けていれば、どれほど先になるかはケースバイケースだが(10年以上かかることもあるという)その先の飛躍が期待できる。誰しもがおそらく経験し、思い悩んだことのあるだろうこの停滞期も、来たる上昇の前触れと思えれば気持ちも楽になるというものだ。

冬休みホンヨミ① 『グーグルに異議あり!』 【岡本】

『グーグルに意義あり!』明石昇二郎

「グーグルブック検索和解事件」…金ゼミ生にはなじみ深いと思われるこの問題。Googleが著作権者に対して持ちかけた「和議」を彼らの多くがなすすべもなく受け入れる一方で、果敢にもGoogleを相手取って訴訟を起こしたあるルポライターの話。誰もが文句をいいながらもGoogleという大企業による横暴に目をつぶる中で、実際に「個人で」行動を起こした人は極めて珍しいということで読んでみた。

①狡猾なGoogle
なぜGoogleは「図書館プロジェクト」という形で、賛同してくれる図書館の蔵書をスキャンさせてもらう代わりに図書館にもスキャンしたデータを渡すなどという、些かまどろっこしい方法を取ったのだろうか。Googleほどの大企業なら市販の本を根こそぎ買い漁ればいいではないか―。その答えが、ゼミでも扱った「フェアユース」に関わってくる。要は図書館は「経済的事由に関わらず出来るだけ多くの人に本を読んでもらう」という社会的責務を負った公共施設であり、その蔵書であればいくら世に出回ろうと「公正な使用」の範囲を出ないという主張をGoogleがあらかじめ考えていたからなのだそうだ。複製権の明らかな侵害を無茶な理論で乗り越えようとする、また訴訟が予想される案件に事前に手を打っておくGoogleの狡猾さが伺える。

②事業が第一、被害者はゴミ以下?
本文中で筆者の電話での質問に対して、答えが分からないのか面倒くさい案件と感じたのか、Google日本法人が他の出版社を「ここが窓口だ」と言い張って、全く関係のない出版社を紹介するような場面がある。さらには、埒があかないと感じた筆者がメールにて問い合わせしても、回答はついぞ返ってこない。一企業の対応として、これはどうなのか。この一連の対応といい、出版社ではなく飽くまで個人を相手に意思決定を求める姿勢など、ところどころにGoogleの「大きいものは相手をするが、小さいものは無視」という企業としての強い傲慢さが伺える。Googleの打ち出す数々の新しい事業の裏で、いかに「力なきマイノリティ」が辛酸をなめさせられているのか。一事が万事ではないかもしれないが、この手馴れた手法にそんな舞台裏を垣間見たような気がした。

③決着?
フランスやドイツの国家ぐるみの抗議もあり、多くの国の書籍がGoogleブックスによる不当なスキャンを免れるよう、Googleが和解案を出している。しかしながらアメリカ、カナダ、オーストラリアの文献は依然としてスキャンの対象を外れておらず、和解案は依然として承認されていない。本書で語られる時系列のその後を語る文献が見つからずなんとも歯がゆいことこの上ないのだが、現時点でGoogleブックスを使ってかなりの日本の文献が閲覧できるのはどういった理由からなのだろうか?和解案が通っていないからと、日本の書籍もスキャン対象にした旧和解案のスタイルを取って平然としている?あまり適当なことも言えないので控えるが、なんにしろ決着はまだ先の話のようだ。

2011年の抱負【岡本】

2010年の抱負となる四字熟語ということで考えてみました。

今年は「下学上達」でいきたいと思います。

昨年は金ゼミで勉強する中で、割合専門的な知識も含めて多くを取り入れ、各論ではそれなりに詳しい分野も出来つつあるような気がします。ただ、各論で語れるものはあっても、それが属する「学問」という枠で総論的に見たときに、まだまだ専門と呼べそうなものがないなというのが最近の実感です。
闇雲に各論を究めていくのももちろん悪くはないと思いますが、今年はもっと各論ネクサスな勉強を意識し、そのためにゼミでは触れないようなもっと基礎的な部分から学ぶスタイルを取り入れていきたいと思います。

「クリエイティブ産業論」であれば、その系譜を理解し、その中で学ぶ様々な各論がどのあたりに位置づけられるのかを理解すること。様々な関係性のなかで一つのテーマを理解できること。その理解したテーマが他のテーマを理解する手がかりになること。各論ネクサスな勉強スタイルというのは、そういったことを想定しています。

「下学上達」という言葉は「基礎から学ぶ」という意味の「下学」と「その学問の高みに達する」とか「真髄を極める」という意味の「上達」を組み合わせた言葉で、論語が出典とされているようです。
基礎をおろそかにしない謙虚な姿勢で学びつつも、目指すものは高く、そういった抱負をこの四字熟語に込めたいと思います。

2011年1月6日木曜日

【ホンヨミ!0107③】連帯と承認【高橋】

『連帯と承認 グローバル化と個人化のなかの福祉国家』 武川正吾(著)

①コスモポリタニズムの社会政策
社会政策は元々、社会問題を解決するためのものであったが、グローバル化の今日、社会政策そのもが新たな社会問題となりつつある。第三世界の大量貧困、地球規模での環境破壊など、国民国家の枠組では解決することが困難な問題を抱え込むようになった。国民国家を超えた地域における共通社会政策を策定することは、コスモポリタニズムの社会政策の出発点となる。グローバル社会の中で、市民権をもった国民に対して共通して保障されるべき最低限を示すグローバルミニマムを策定し、先進諸国から第三世界へのグローバルな規模での所得再分配が不可欠だと著者は提唱する。
国内の格差よりも国レベルでの格差の方が当然大きいものの、国内格差を是正せずに第三世界に目を向けるのは時期尚早ではないだろうか。例えば中国国内の格差はとても大きいが、まだ是正されていない状態で、政策的に不備があるとしても国内格差を是正できていない状態で果たして世界レベルで協力して格差是正に努めることができるのであろうか。グローバルミニマムの価値観の照準をどこに合わせるのか、という問題も起こるだろう。

②グローバル化の労働における弊害
グローバル化による国境を越えた労働移動は、同一国内に、市民権の保有者と非保有者が併存するという状況を生む。市民権の有無は、社会政策上の差を生んでしまう。つまり、同じコミュニティで生活していて、社会政策を必要とするという点ではまったく同じであっても、一方は社会政策の適用を受け、他方は社会政策の適用を受けないといった状況が、グローバル化によって生まれるということだ。
日本は市民権を得る基準が比較的高い国の一つで、線引きをすることで排除を生み出してしまうことが多い。しかしかといって市民権を得る基準を下げすぎると移民問題や、今までの政策とかけ離れることで国内から生活を危惧した反発の声が上がるかもしれない。今のままでは貧しい労働移民は苦しい生活を強いられるが、社会政策上は現状のままでいいのか。それとも世界からもっと積極的に人の移動・居住を寛容にし、国内のいわば「ドメスティックミニマム」を充実させた方がいいのか。そのバランスは難しい。

③個人化
核家族したことで家族が個人化し、職域も個人化している。その証拠に多くの国で労働組合の組織率は低下傾向にあるという。そして、地域からの個人の離脱も目立つようになってきた。地縁集団からの個人の離脱は個人の自立を意味する。しかしながら、これまでの福祉国家は地縁型の団体によって編成された地域社会を前提として存在してきたため、個人化によってもたらされた地域社会の変化は、福祉国家にも影響を及ぼせざるを得ない。地域における個人化は社会的排除も個人化するのである。
地域における市民社会の生成は、福祉国家と地域社会の境界面を変えることになり、地縁から排除された個人への対応に今後迫られることになると考えられる。

2011年1月5日水曜日

冬休みホンヨミ③【黄】ヒューマニティーズ 教育学

ヒューマニティーズ 教育学 
広田 照幸著

①教育の目的
帯の裏にこのような事が書いてある。「ポストモダン的な価値の相対化の地点から『教育の目的』を棚上げにしてしまうのは『教育のシニシズム』を生んでしまう。......誰をも屈服させるような強力な『教育の目的』を、ある社会が持ってしまう事も危ない。2つの極の間で『教育の目的』をどう論じる事ができるのか。これからの教育学に求められているのは、これである。社会が多元的であるにも拘らず、教育はある体系性や統一性をもって組織される必要がある。この難題に教育者がどう取り組むのか、という事である。」まさにこの本のコアとも言えるだろう。近代に入り社会は日々大きな変化を遂げている。経済のグローバル化や次々と浮上する地球規模的な課題。これらは今後の教育のあり方にさらなる変容を迫っているに他ならず、ではどこからどう働きかけていくべきなのかを考える1冊なのである。

②教育が歩んできた軌跡
19世紀末に登場し、20世紀の教育学の本流となった「進歩主義教育運動」。この動きが3の「教育の成功と失敗」で展開されていた。この運動のベースには「子供一人一人が違っているから、それに応じた教育をするという革命的な考え方があった。そしてその主張に応じて登場したのが「全ての子供にバラバラな事をさせ、同時に、どの子も同じ程度の学習レベルに引き上げるという教授技術」であった。これらの動きが公教育制度の登場と相まって教育の形成に大きな影響をもたらしたのは言うまでもない。そしてその後1980年代から始まるポストモダン論によって、それまで積み上げてきた教育体系は無惨に崩されていくのだが・・・。

③教育学に必要な事
そのひとつは当然本をじっくり読む事だ。5ではその更に先を行って「何を読むべきか」そして「どう読むべきか」が言及されている。講義や演習で得る知識は確かに大事なエッセンスの一つだがそれらは断片的であり、かつ限界があるのだ。自分自身で自発的に広い読書を心がける事、基本と言えばそれまでだが、だからこそ胸に刻むべき教訓なのかもしれない。

冬休み ホンヨミ② クラシック音楽はいつ終わったのか【黄】

「クラシック音楽」はいつ終わったのかー音楽史における第一次世界大戦の前後
岡田 暁生著

①音楽を巡る激動
19世紀。それは市民社会が成立された時代だ。そしてその先に待っていたのは何もかもを暴力によって破壊する大戦争だった。それは音楽にも例外なく起きた。「この戦争で生じた社会の根底的な再編成が、18世紀後半の啓蒙の時代以来のインテリ・ブルジョワ文化の没落をもたらし、さらにはファシストとボルシェヴィキ革命の温床のなった」。そして「19世紀市民社会が作り出したクラシック音楽の語法・美学・制度とは決定的に違った音楽」が第一次世界大戦前後に登場することになる。第1章では第1次世界大戦前後に何が起きたのかを大まかに俯瞰できるよう節が設定されている。

②音楽家達の戸惑い
第3章、4章では戦争中の動きにスポットライトが当てられている。その中でも特に印象的なのが戦争が長期化するに従って徐々に戸惑っていく音楽家達の姿だ。「大戦争が勃発したとき最も熱狂したのは、いわゆる知識人たち」で「文化の力で現実政治を動かす事ができる」と固く確信し、音楽が担うべき「精神文化によってこの大戦争を勝利に導く」という役割を果たそうとした。いや、果たせると彼らは確信していた。しかし現実にその愚かさを思い知らされる事に・・・。

③第一次世界大戦とは
第5章では、この第一次世界大戦が音楽史においてはどのような役割を果たしたのかについて検討している。戦争を通して「人々を集団的な死に向かわせる程の力を音楽は持ち得る。ただしそれは国家や軍歌であって、決してオペラや交響曲ではない」という事を人々は学んだ。著者はこの章のまとめとして「この苦い事実に一体どういうスタンスをとるのか。これこそが、音楽と真剣に向き合おうとする人々に対して第一次世界大戦が突きつけた、最大のアポリアであったかもしれない」と結んでいる。ヨーロッパの音楽史はその変貌の壮大さに息をのむ。本書はその一局面を捉えるにおいて大きな助けとなる事は間違いないだろう。

【冬休みホンヨミ!①】犠牲【金光】

『犠牲』柳田邦男

看護医療学部の友人に薦められて読んだ。
作家柳田邦男氏が自身の長男が精神病に苦しみ自ら命を絶ってしまった後、脳死状態になり、第三者ではない立場で脳死と向き合った筆者の記録だ。

精神病、自死、脳死、どれも今まで自分の日常とは遠く感じていたことだっただけに、この本を読んだときにその内容が持つ重い力に困惑してしまった。

文字を適当に選んで感想など書ける内容ではないが、うまくまとまらない。
息子が植物状態になるかもしれないと宣告されたときに「科学知識による自己コントロール」を心がけようとした、ある意味冷静な部分と、だからこそ読み手に伝わってきた極度の衝撃。
医師や看護師の繊細な気配りにどれだけ家族は心救われるか、そしてそれほど敏感になっている家族の精神状態。
家族二人がつらい状況にあり長男がなくなってしまったあと、また自身の活動を始めた筆者を奮いたたせた力。
克明に重みを伝える”文字”をつかさどることのできる人の力。
自分が、家族が脳死になったら? 臓器提供にyesと言えるのか。言いたいのか。

この本は年末から年始にかけて読んだ。
その直後に新しい保険証を渡された。裏には臓器提供意思の欄があった。
この本のおかげで、考えるきっかけとなった。

2011年1月4日火曜日

【冬休みホンヨミ!0107②】社会的排除【高橋】

『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』 岩田正美(著)

①今日の人間関係
私たちの人間関係はネットの普及によって開放性と匿名性をもっているのが特徴で、さらには継続的な一過的関係が常にある状態でもある。つまり現代社会は、知らない者同士の匿名のままの関係の網の目が開放的で世界の隅々にまで広げられていると同時に、相対的に閉鎖的な特定範囲の人々や地域の集合体でもあると筆者は定義づける。それを反映しているのがSNSだろう。特に、日本で依然人気のmixiは匿名性が高く、関係が隅々まで広げられている。ただしそこには「日本」に何かしら関係のある人でないと集まらないという、閉鎖的なものでもある。この閉鎖性は何を生むか。「排除」である。

②アイデンティティの拠り所
定点=ホームと位置付けることで、自分の基盤・アイデンティティの拠り所を築いているのである。そしてホームという囲いを作るからこそ他人を必要とし、自分を築き上げていく。そこには他人を受け入れたり排除することで自分の定点を維持している。ホームを確認することで、一定の網の目の中に入る「許可」の条件になっていることが少なくないと筆者は云う。自分の居場所が揺らぐ中で自分のホームを堅持することは他者の排除を引き起こす危険性が含まれている。

③排除
排除の種類として、空間的排除と制度的排除が挙げられる。貧困層を一つの場所にまとめたりすることが空間的排除で、ある特定の人々が制度から排除されてしまったり制度それ自体が排除を生み出す場合があるのが制度的排除を指す。では差別と排除はどう違うか。差別は他者を恐れたり嫌悪する心理機構で、排除はしばしば抑圧の一形態として扱われる。差異を利用した一方的価値づけとしての差別は、しばしば社会的排除を結果するといえる。差別されて排除されている人々と、排除だけされている人々がいて、社会的排除は社会への参加の阻止という状態に特徴がある。日本社会には特にこうした排除の傾向が色濃く映し出されているといえるだろう。受容していく心が不可欠と口では簡単に言えることかもしれないが、潜在的な排除を含む制度の下、価値観自体を改革していくにはまだ時間がかかるのかもしれない。

【冬休みホンヨミ!0107①】こころの格差社会【高橋】

『こころの格差社会―ぬけがけと嫉妬の現代日本人』 海原純子(著)

①日本社会の伝統的な文化的な思考回路
「場の中に入る」「和を乱さない」という原則が日本社会の文化的な思考回路で、私たちは外されることは怖い、生きていけないという刷り込みがされてしまっている。それは、日本の学校教育では「和を乱さないこと」「協調性があること」は「いい子」だという評価を受け、「その社会」に属し、場の一員として突出しないことが重要視されがちだったからだ。しかし一方で、「自主性をもち個性も大切に」とも叫ばれ、個性を表現するも、学校では和が求められるという矛盾を孕んでしまっている。学校では個としてではなく場の論理が求められ、波風を立てないように過ごすこととなる。
集団行動が多い日本では、やはり団体・組織としての和を重んじる傾向が強いと感じていて、それが昨今では個性の尊重にも目を向けだしたものの、現実的には未だに個性よりも協調性の方がやはり重んじられていると感じた。

②目に見えないあげ底
所謂勝ち組には負け組にはない「あげ底」が存在しているという。試験は平等に受けられる、機会は平等に開かれている、ように見える。本当にそうだろうか?現実には育ってきた環境の格差、親の収入による教育格差など、格差が勝ち組の財産になってしまっているのに勝ち組の人間は気付かない。だからこそ勝ち組の人間であればあるほど、実績をあげられない者は努力が足りない者としか思えないのだと筆者は云う。勝ち組と負け組とのコミュニケーション不全を引き起こし、さらなる格差を助長させてしまっている。
コミュニケーション不全を改善するには、勝ち組の気づきが不可欠で、自分たちの持ち合わせた目に見えぬ財産に気付く必要がある。「自分の実力」と信じている実力の中に恵まれた条件があったことに気付き、自らの成功を謙虚に受け止めるといった自己肯定感をもった謙虚さが必要不可欠なのだ。そのためにも相手の気持ちや意見を聞く姿勢が一層求められるのだ。

③見えない天井
見えないあげ底がある一方で、見えない天井を自分でつくってしまっている人もいる。「できない」「苦手」という言葉を口にすると自分の可能性はブロックされる。自分を遮って伸びられなくなっている透明な天井を破る必要がある。一度の失敗を一般化してすべてそれが苦手だとしてしまう一般化思考にも注意が必要だ。
負の言葉を口にすべきではない、というのは自分の可能性を自分で潰すことになるからだ。家には天井があるが、外には天井なんてない。一歩踏み出す勇気が自分を無限の可能性へと誘う。

2011年1月3日月曜日

【冬休み】ホンヨミ!①なぜ科学を語ってすれ違うのか【黄】

なぜ科学を語ってすれ違うのか

ジェームズ・ロバート・ブラウン著



①ソーカル事件
今後の世界では、何が科学を支配するようになるのか。
この議論は長い間、収束を見ない議題であった。その中で1996年、物理学者であったソーカルによって発表された一つの論文がこのサイエンス・ウォーズに油を注ぐこととなる。何十年も前からこの争いの無益さは指摘されてきた。リチャード・ファインマンは「科学者にとって科学哲学の無益さときたら、鳥たちにとっての鳥類学と大差ない」と数十年前に指摘。それから今に至るまでの間、理系・文型間の科学観は隔絶する一方である現状を踏まえ、本書はソーカルが提起した問題をベースに、世界で展開されてきたサイエンス・ウォーズの全貌を客観的に分析する試みがなされたものだ。

②科学とは何か
本書には主に2つの指摘が込められている。まず一つ目は科学哲学・科学論の研究が「科学とは何か」について、科学者とはまた異なった局面から重要な知見をもたらしうるという指摘だ。
「科学とはなんぞや」という問題の解は、科学者たちだけでは答えの出せない特質があるとのこと。しかし今日の科学者にこの事実を認識している人がどれだけいるのか。この認識の欠如は時代が進むごとに深刻化しており、科学の営みをメタレベルで見直す必要性がそこにはある。

③合理的な営み
科学は合理的な営みであり、科学者は様々な価値を持ちつつも合理的なアクターとして機能できる、と言うのがもう一つの指摘だ。科学は先入観や自己欺瞞、欲望、願望にまみれた一個人が客観的・合理的に機能する難しさと戦い、その合理性を論証しようとする働きだ。その中でうみだされた価値は科学の営みにおいて重要な役割を担っていくだろうし、その先の「科学の民主化」と「科学の専門性の担保」の両立へとつながっていくだろうと筆者は主張してやまない。

2011年1月2日日曜日

『冬休み』今年の抱負 【黄】

明けましておめでとうございます
今年も皆さんにとってすばらしい1年になりますように!!

私の四字熟語は、じっくり時間をかけて考えたうえで思い切って断行する『熟慮断行』です。
2010年の1年間を振り返ってみると、本当に新しい経験の連続でした。
自分に蓄積されたものがなかった分、とりあえずかき集めようと走り、その中で本当にたくさんの学びがありました。
金ゼミももちろんそのうちの一つ。考え、インプットし、また考え、アウトプット。出会って、衝撃を受けて、学ぶ日々。メディアという分野に限らず、自分のあるべき姿勢から、自分が本当に好きな分野は何なのかに至るまでとことん見つめる機会があった自分はラッキーだったと思います。
今年はこのかき集めたピース一つ一つを吟味し、取捨選択する1年、そして果敢に行動し、前に進む1年にしていきたいと思います。
今年もよろしくお願いします。

【冬休み】今年の抱負【栫井】

あけましておめでとうございます。
今年も宜しくお願いします。

さて、今年の抱負を四字熟語で表してみます。
わたしの四字熟語は、「天真致知」。
天真とは、純粋で飾り気の無いこと。致知とは、個々の事物の理を究明すること。
去年は、やたら気を張っているところだったり、ひねたところが出てしまって、素直に物事を受け容れられないときがありました。
今年は、そういうつまらない意地だったり奢りを無くして、ポジティブな捉え方で色んなものと向き合っていきたいと思います。
何かに触れたとき、それを狭い見方でさくっと定義してしまうのではなく、もっと拡げてプラスαの価値を付けられるようになりたいです。

2011年1月1日土曜日

2011年の抱負~四字熟語~【高橋】

あけましておめでとうございます!!
2011年開幕ですね。
昨年は光のような速さで過ぎ、今年もそれくらい、もしくはそれ以上の速さで過ぎてしまうのかと思うとぼんやりしてられません。
入学前のフリーター時代は時が過ぎるのがとても遅く感じたのに、今こんなにも早く感じるのはたくさんのことに囲まれて充実しているからなんだと実感します。

今年からまた新たなことがたくさん始まります。
自分次第で毎年違った生活を送れるのも「学生」の良い点だと思います。
なので、今年こそすべてに全力投球!ということで抱負にしたい四字熟語は…
奮 励 努 力 !
文字通り、「目標に向かって気を奮い起し、つとめ励むこと」です。
なんだか努力という言葉ばかり使ってしまっていますが、自分に常に欠かせないものだと思っているのでやはり大切です。
努力した分だけ結果はつく、と身を持って体感してきたことなので信じています。
どんなことにおいても、自分が決めたことに対しては中途半端にせず、突き進んでいく。
まったり心を休める時間も大切ですが、一時一時を大事に「短い」大学生活を満喫したいです。
今年もどうぞ宜しくお願い致します。

2011年の抱負 四字熟語 【金光】


あけましておめでとうございます!

私の2011年の抱負は…
取捨選択

いろいろなことを手当たり次第にやる時間はない。
自分にある時間を考えて、効率的に、メリハリをつけて、必要なところに十分な時間をかけられるような癖をつける一年にしたい。
今までいろんなことを考えて文字にするときも議論するときも、抽象化して逃げてきたけれど、もう今年はそうも言っていられないのでしっかり具体化した話で勝負できるようになりたい。

結果だけで判断しないで、プロセスも見て評価して、と言えるのは結果を出した人が言える言葉。
だから自分が納得のいく結果を出したい。
時間の使い方は結果を出すためのプロセスの話で、自分がとったその手段が良かったかのか悪かったのかは結果に現れるから、あえて今年の抱負は”取捨選択”としたい。