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2010年10月2日土曜日

【1001ゼミの感想】コンテンツは好きですか?【戸高】

・自分達の反省
 言葉の定義をやっぱりもっとちゃんとせなあかんなーと思いました。
 「エディターシップという言葉は古い」という先生の言葉にあった通り、その言葉の概念すら古いですし、まずエディターシップってなんやねんって感じがしました。

 そもそも僕らが曖昧な感じで使っていた言葉であり、全員で共通の見解がなされていなかったのかもと思います。
 エディションするということは、実際のマンガ編集者のような感じで作者と組して、マンガの企画立案からアイデア出し。さらにはアニメ展開、グッズ展開というマンガ以外のビジネス面のケアといったマネジメント機能のようなものなのか。
 はたまた、とあるプラットフォーム上にある作品を観て、気に入ればマイリストに入れるなどの評価を与え、そのコンテンツを盛り上げるような、ニコニコ動画での評価付け機能のようなもののみを言うのか。

 こういった面をメンバーでもっとつめていけたらいいなと思います。

・他の班へのフィードバック
昨日ゼミでも言いましたが吉田の班の「初音ミク出馬」について。



「初音ミク出馬も?」ネットが導く民主主義2.0
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0912/07/news102.html
もはや初音ミクに投票すべき!
http://ascii.jp/elem/000/000/523/523868/

 ざっとまとめてしまうと、「初音ミク」というキャラクターを政治家として祭り上げてしまって、支持者達が政策等、要望をする。そしてそれをtwitter等のSNSで皆で共有し、皆が悪いと思ったものは自然淘汰されていき、いいと思ったものはどんどん広がっていく。

 たぶんこれは吉田の言っていた日本オタク党と似ている仕組みだと思います。
 ただ政党を作るには政治家が必要なわけで、そこで「オタク党」とするならば様々なオタクがおり難しい。そこでキャラクターを立候補させることが可能であれば、確実に支持を得る事ができるので楽ですよね。
 ただ、今回の初音ミクの場合は「16歳」という設定があり、出馬はできないのですが笑

・コンテンツは好きですか
 僕はコンテンツが好きです、まぁ何がコンテンツやねんていう話になりますが「マンガ」「アニメ」「ゲーム」みたいな昔から趣味として自分が親しんでいたものが好きです。
 実際に自分がマンガをコミケで出してみて、それを作る苦労、売れた時の喜び、仲間への、お客さんへの、作品への感謝というものを感じる事ができたということが大きな契機になっているとは思うのですが、コンテンツの作り手への尊敬もあります。
 そんなことを含めて僕は日本のコンテンツが大好きですし、コンテンツの事をもっと知りたいとも思います。将来的にはなんらかの形で携わる事ができたらいいなとも思います。
 
うちのゼミはクリエイティブ産業論と言って、その中にはもちろん「コンテンツ産業」も含まれてます。
 何かを学問する際に、その対象が好きならば深く深く学問できると思います。もし自分がコンテンツが好きならばどういう所が好きなのかってところを考えてみると、金ゼミというか、学ぶ事についての位置づけがうまくできて、日々のアンテナも広がって行って、もっとコンテンツ産業が面白くなるんではないでしょうか、と思いました。

2010年9月25日土曜日

【自分にとっての金ゼミ】真剣【戸高】

 4年なので、これからというよりもこれまでどのように自分が金ゼミにいたのかを思い出してみる。


①裏表なし
 これは代表(だった)という義務感からかもしれんが、基本自分は裏表なく金ゼミでは人と接するようにしていた。
 裏表なく接するということは、本気で、そして嫌われてもいいという思いで人と接するということでもある。
 本来の僕はそれなりに裏表がある人間で、属するコミュニティなり、相手にする人によってけっこう性格を変えていた。でもこのゼミではそれをしなかった。
 僕が代表だった頃の4期の皆さんはなんやかんやありながらも優秀だったのでそんなに本気でキレた事はない。
 でも、全体ではもちろん、個人と1対1とかで話す機会も代表だからかよくあった。そんな時は、けっこう厳しい事を言う相手とかもいた。普段はアホみたいな事を一緒に言っているような相手であっても、裏表なくタテマエ抜きで話をした。
 裏表のない、ありのままの自分を出す事によって、その人のことを深く知れたし、知ってもらう事ができた面もあったと思う。
 自分が本当の自分であれる、そしてそうあろうと思う事ができる人が集まっている場が金ゼミでした。


②成長
 基本的に、世間一般で言う意識の高い学生達が集まる場所ではないコミュニティにしか所属していなかった僕にとって、金ゼミという場は刺激的な場でした。
 そこで代表をさせてもらえる機会があったので、もちろん周りのみんな、特に後輩には自分達が作っていく場で存分に成長してほしいと、おこがましいが思っていた。
 でも、それ以上に自分が代表として、その場を利用して成長してやるという思いの方が強かった。
 なぜそう思う事ができたのかということを考えると、もちろんここにも代表という義務感があったのかもしれないが、自分は裏表なく接する事ができるこのゼミの事が好きだっt。
 その自分が好きな場所にいる人相手だからこそ、全力でできるだけサポートしてあげたかったし、自分もそこにいる人たちに最大限の恩返しをできる様に成長しようと思えた。
 人の、自分の最大限の成長のために努力をできる場が金ゼミだった。


③自由と責任
 これは去年の1つのキーワードだったんですが、本当に何度も言うがこんなに学生が自由にゼミを作る事ができるゼミって全国見渡してもそう簡単にはないと思う。
 そんな数少ない珍しいゼミに所属していると、自由なのが当たり前に思えてきますが、その裏にはいつも責任がついて回っている。
 自分が自由にできるからこそ、そこで腐ろうが、成長しようが、また周りの人間に悪影響を与えるのか、好影響を与えるのかという責任もいつも背負べきだ。
 自由な場があるからこそ、そこに責任を感じ、自分のための投資に全力で取り組む事ができる場、それが金ゼミだった。


 この3つに共通してるエッセンスとして、「真剣」というワードがあると思います、「本気」でもいいと思う。
 真剣に人と接して、自由と責任を感じながら真剣にその場を作り、真剣に成長すべく努力を行う場。
 それが僕にとっての金ゼミです。

2010年9月11日土曜日

【夏休み】いいこと【戸高】

 9月10日、ものつくり学部2期の製作が都内某所で発表された。約2年ぶりの大作の復活に関係者内では衝撃が走っていた。

 かくいう私もゼミの一員として、彼らものつくり学部には深く関わらせていただいた。彼らが突然行うと表明した記者会見の開場である品川牛角に、私は期待に胸を膨らませて足を運んだ。

 そこにいたのはいつもの自然体の彼らだった。学部長銭谷は嬉しそうに必然の奇跡を喜んでいた。寡黙であるが発言の節々にユーモアのある宮村、陰のブレイン岸本も2年前と変わらない様子でたたずんでいた。

 私は祝福のプレゼント(自筆の絵画というなのハガキ)を手渡し、記者会見に加わると同時に、3人への思い出が走馬灯の様に思い出された。以下、3人と私の思い出を書いてみたいと思う。


【銭谷侑:金正勲研究会2期生】
 私が最もお世話になった先輩の1人。時折彼が「戸高と同じ匂いが自分にはする。」と言ってくれるのがどこか嬉しかったりもする。

 彼は細身でオシャレでリア充間違い無しと思える風格をいつも漂わせている。しかし、実際は自他ともに認める非リアな学生時代を過ごしていた時期もあった。

 そんな時に私と彼は出会った。大学2年の秋学期から毎週火曜日昼休みの恒例となった「非リアの会(居酒屋たけぞうでの550円ランチ)」は、定期的には開かれていないが、後輩へとその場所は伝えられている。

 私は彼と共に深く共同作業をしたことがないので、彼の人徳については私よりも深く理解している人はいるだろう。しかし、それでも彼から伝わってくる人徳は計り知れない。

 チームを引っ張っていく際に誰よりも真摯に、熱く取り組む姿勢。発想力と技術力に裏打ちされた見事なプレゼン能力。真面目なだけでなく、くだらない事にも一生懸命になることのできるギャップ。その他言葉では言い表す事ができない程の魅力が、彼が後輩によく慕われる証拠だ。

【宮村周志:金正勲研究会3期生】 
 圧倒的なクリエイティビティを誇る反面、腰の低さは天下一品の謙虚なナイスガイ。

 彼と私の初めてのコンタクトは入ゼミ後すぐの親睦会だ。私より2コ年上であるにも関わらず、「ため口でいいよ。」と天使の微笑みで応えてくれて以来、私は彼の事を尊敬の念を込めて「みやむー」、彼は私の事を仕方ないとの念を込めて時折「ガチムチさん」と呼ぶ。

 彼との1番の思い出は私が初主演を果たした映像作品の撮影だ。うだつの上がらない宅浪生を演じ、さらに演出としてマンガの配置も行った。私の自宅での7時間にも及ぶ撮影の末、完成した作品は、授業担当教授から「主役の男の子がよかった。見ていて元気になる。」とのコメントを頂いた。

 もちろん、このコメントを引き出したのは彼のクリエイティビティに寄与する部分が大きい。映像のみだけでなく、現金正勲研究会のHPを作り上げたのも、韓国で7泊8日に及ぶ合宿の記録映像の総指揮をとったのも、洗練されたデザインの「news clippers」Tシャツを作ったのも彼だ。

 彼のウリはクリエイティビティだけではない。皆に平等な態度で温和に接していたからこそ、多くの崇拝者がいるのも彼の特徴だ。

【岸本和也:金正勲研究会3期生】
 私が3年間、ゼミで同期として時間をともにしてきた仲間である。ゼミ初日に持参した鞄が私のと被っていたらしいが残念ながら私にその記憶はない。

 彼と私が最も濃い時間を過ごしたのは3年時の論文活動で組んだユニット、「ぱぴこ☆ぱぴこ」においてであろう。週に4、5度はミーティング、ゼミで顔を合わせ、毎日毎日UGCについて頭を悩ませた。

 ミーティングの場では圧倒的な知識で新たな視点を次々と出していき、さらにはかの有名なUGCサイト設計論を1枚の図にまとめあげた人物でもある。アイデアとロジックの両面を兼ね備えた人物ではあるが、時折ふにゃふにゃし、ミーティングに遅れてくる事もあったのはここだけの秘密だ。

 論文活動終了後も、冬のネズミの国、朝から夜まで遊びっ倒し。金沢1泊2日旅行〜いま、相川さんに会いに行きます〜でのまさかの2日連続相川さんに遭遇に出会わせた人物。夏のマザー牧場でまさかのお宅訪問。と、精力的に活動を共にしている。

 ふにゃりとしゃきりを使い分ける小動物の様な存在、それが岸本和也だ。

*****

 記者会見後は私の家を中心に、ものつくり学部2期の初めての活動が簡単に行われた。

 とにかく狭い所で集まって写真を撮ってみようという、どこかモダンアートの様な香りが漂ってくる活動である。

 本来、私のようなものが参加できるはずもない、高尚な活動であったが、特別に許可が出たので参加させていただいた。

 以下にその作品を貼付けておくので見ていただきたい。













 これだけを見てもまだまだものつくり学部の底力は計り知れない。これから先に始まるであろう、彼らの新たなコラボレーションにファン達の胸は膨らんでいる。

PS
 私事ではあるが、大学院進学を止め、とりあえず就職活動に精を出す事にした。それが彼らと同時期か、1年先になるかはわからないが、1日でも1年でも早く彼らに肩を並べる事ができる様に日々努力していきたい。
 
 9月10日は本当にいい日で不思議な日だった。あらためておめでとう。

2010年8月9日月曜日

3

 回目の夏合宿でした、金ゼミ史上初の意外と歴史的なことでもありました。戸高です。
 この3回の合宿は3回とも毛色が違っていて興味深かったです。まずはその3回の合宿を簡単に振り返ってから今回の合宿を本格的に振り返りたいと思います。

・2年@油壺
 金ゼミに入って初めての合宿でした。今の3期と僕はある程度は仲がよく見えているとは思いますが、正直この合宿まではそんなに仲も良くなかったし、むしろ浮いていた存在だったと思います。
 僕の尊敬する先輩の1人であります相川さんも言っていましたが夜の話し合いで僕が何かしら普段より熱く話していたのが印象的だったらしいですが、数日寝食を共にすれば普段は週に1回しか会えない面子であってもわかりあえるといったことを改めて知った合宿でした。

・3年@韓国
 いろいろと問題がありながらも個人的には楽しかった7泊8日だった韓国。今、去年の合宿中の自分のノートを振り返ってみると「責任ある自由」なり「当事者意識」なりがキーワードだった様に思えます。
 合宿という、決められたプログラムの中でいかに自分が主体的に関わり、また決められたプログラムでありながら各班毎にある程度の自由が与えられた合宿の中でいかに責任を感じながら自由に最大限動くことができるか。
 こういった日常生活においても普段なかなか意識をすることができない(でも人間は意外と無意識で自分の好きなものに関しては責任感を持ったり当事者意識を持ちながら行動しているもの)状態に放り込まれて、まさしく自分の意識を試された合宿でした。

・4年@河口湖
 去年の合宿も僕らの班「青春ぴんく」はたぶんドコの班よりも1番自由な班だったので、途中「こんなに自由でいいんだろうか」とも思いましたが今年も4年ということもあってか、車で行き帰りができるなど、それなりに自由に参加させていただきありがとうございました。
 合宿係の皆さん、合宿全体に関わっていたであろう金光代表、心地いい環境を提供してくれた他のゼミ生の皆さんのおかげです。
 あと、ブログ内でわざわざ僕の運転をねぎらってくれた藤田には涙がちょちょぎれそうです。

 合宿で行った話し合いや、バンダイナムコゲームス企画といった真面目なことから、バトミントンやBBQ、誕生日などの娯楽企画、そして風呂でのふざけ合いや夜中の結婚うんちゃら話、腹ドラム等の完全ふざけでしかないこと、色々と思い出はありますが、自分の印象に残った真面目なこと2つを書いときます。

①夜の話し合い
 5期生の皆の言葉の大事そうな部分だけノートに取っていました、全員分アップしてみます笑どれが誰の言葉だったか考えてみると面白いかもです。

・全部は自分次第。不平不満も自分がまずどうにか行動してから言うことができること。
・今までの100をこれからは150に。増えた50は自分なりの楽しさや興味といった視点を盛り込みたい。
・やらされるんじゃなくてやる。
・ゼミ+自分の興味=自分なりの定義付け
・自分なりの視点を全てにおいてリンクさせたい
・無理してでも何かを楽しむ。4期主導に甘えない。
・受ける刺激で興味の幅が広がるだけでなく、それを自分のこととして落とし込む。

 皆の意見に共通して見出すことができるのは、「結局は全て自分次第」ということと、「知識をいかに相手の受け売りにするのではなく自分だけのものにするのか」といったことでした。
 たぶんこんなに学生次第でどうとでもなるゼミは普通なくて、むしろ異常なんだと思います。先日大学院のゼミにお邪魔させていただいた際も感じました。
 異常な状態にいるからこそ、自分達次第でどうとでもできるゼミなのも金ゼミです。この異常な状態を存分に活用してゼミの運営方式であったり、内容についても不満を持ったら5期生であることとか関係なくどんどん声を出していって変えていってほしいです。
 今回の合宿では5期生のホンネがけっこう聞くことができたので、またゼミも秋学期から変わっていくんだろうなと思いました。

②ノート
 今回の合宿の話し合いを見ていると、意外とノートというかメモをとっている人が少なかった気がします(特に5期)。
 別に自分にノートをとるスタイルが向かんのならば全然とる必要はないと思います。ただ僕は他の人より話すのがへたくそだし、頭も良くないので、まず何か発言をする時はその時の大まかな道筋をノートに書かないと話すことができません。
 そうした思考の再整理にも役立ちますし、あといくら印象的なことであってもやはり日が経つとけっこう忘れてることで、ノートにとっておくことで再確認作業にも役立ちます。去年の合宿のノートを読んだ時も「こんなこと言ってたのか、今年の自分も気をつけなな」と身が引き締まりましたし。
 まぁこれは各自好きにしたらいいと思います。


外伝
 今回の合宿で地味に嬉しかったことは、村山がバンダイナムコゲームスのプレゼン後に、けっこう本気で悔しがってくれたことでした。
 誰かが悔しいと思うレベルまで本気になれているということはこの企画自体の意義があるのだと思います。
 今度はこの悔しさを充実感に変えるべく、あと少し、各班頑張っていきましょう。

2010年7月10日土曜日

【0709ゼミの感想】フラット【戸高】

 2010年度の春学期のゼミが終わりました。速かったなー、あっけなく終わったなという印象でした。去年はゼミ後に飲み会とかあったのになーとか岸本と言い合ってました笑

【辻野さん】
 去年の金ゼミでよく耳にしていた言葉「フラット」が印象的でした。Googleと初期SONYの共通点は「フラットな組織である」ということでした。
 フラットな組織のいい点は、辻野さんもおっしゃっていた様に「意思決定のスピードが速い」ということが一つにあるでしょう。
 ネット社会になって処理しなければならない情報量は莫大に増え、その処理を上からの連絡を待ちながら進めていれば、次から次へと対処しなければならない案件が入ってきて間に合わない。この意味でもフラットという概念は重要だと言うことができるだろう。
 
 また、Google流(辻野さん流)のイノベーションの概念も興味深かったです。

innovation=good idea or technology + wide spreading

 P&GのA.Gラフリーは、イノベーションをお金を稼ぐことができないと意味がないと言っていましたが、広く普及するということも、多くの人に知れ渡り、それでお金を稼ぐということでしょう。
 以前、民主党議員の田村さんが「奇抜なファッションをしているのは、まず注目されないと意味がない。注目されないと、その人がいくらいいことを言っていても世間に評価されない。」と言っていたことが頭に蘇りました。
 いい意味でも悪い意味でもまずは目立たないと意味がない。目立って、それが悪いことでも真摯に対応し、問題を改善していけばそれはいつか評価される。
 まずは出る杭たらねばだめなんだと強く実感しました。

【三田論】
 3分で自分の問題意識を伝えるのはすごく難しいことなんだなと、聞いていても実感しました。個人的に短いプレゼンの時に気をつけなければいけないなと感じた点をあげておきます。

・誰が聞いてもわかりやすい言葉で伝える(言葉の定義はしっかりと)
 知識の格差は絶対にあるのでここは常に意識せねばならんのではないかと。

・1番言いたいことはなんなのかをはっきり
 スライドでの工夫もそうですが、行間ならぬスライド間で、それを口頭で伝える技術が重要なのかもしれません。
 今回、テーマ内容は複雑でわかりにくかった人が多かったとは思いますが、竹内君はそういうスライド間での伝え方が上手いなと思いました。

・どれだけ高い問題意識をもっているのか
 「なぜそれをやる意義があるのか」という言葉に変えてもいいかもしれませんが、ここも重要です、データや現状の問題等、ファクトをしっかり持ってきて、自分の問題意識はこうあり、それをこう改善していきたいという意志がいかに現れているか。
 ここは村山君のがよかったです。データももちろんですが、AmazonやGoogleでの検索でもなく、自分達がその道のパイオニアになってやるんだという意志が見えました。

これから三田論が始まってもテーマは多少右往左往するとは思いますが、皆さんこの経験は意外と大きなものになるので頑張っていきましょう。

2010年7月3日土曜日

【0702ゼミの感想】数字【戸高】

【田村耕太郎さんのお話】
 人をいかに納得させるのか、という話し方が上手だと思った、流石政治家といったところか。そう思った点は主に2点ある。

1話の始めに目的を共有する
 田村さんはまず話を始める際にこう言った。

「グローバルな視点と経営センスの重要性を知ってもらうために」

 まず話を始める際にその目的を共有してくれる方の話は聞いていてわかりやすい。どこに集中して話を聞けばいいのかがわかるし、その安心感からすんなりと話が胸の内に入ってくる。
 自分も恒日頃から心がけようとしてはいるがなかなかできていないことが多い。これからプレゼンをする時に最低限「まず目的を共有する」を徹底的に心がけて行きたい。

2効果的な数字を随所に入れる
「日本のGDPは15年前と変わっていない、498兆円。こんな国はない。」
「1兆円を積み上げた高さは10kmで重さは100t。」
「税収は37兆でこれもものすごいペースで減っている。」
「山を持てば持つ程お金がかかる。80年ものの立派な杉でも1本150円と大根程度の値段。」

 話の中にデータがあればその話がぐっと引き締まる。客観的な数字程説得力を持つものはない。
 僕たち小市民にとって1兆円単位のお金は正直想像しがたい額だが、高さや重さで例えてもらえるとそのお金の重みが一気に身近に感じることができる。身近に感じることができたからこそ、今の日本が危機的な状況におかれていることが身にしみる。
 ロジックはちょっとした感情論に淘汰されない。それどころかロジックにより感情を動かすこともできるのだ、ということをまざまざと実感させられた。
 自分は感情論になりがちなところがある人間だが、もっともっとロジック、数字を意識して行こうと改めて思った。

【バンナム】
 5点が1人、4点が3人とのことでした。
 僕も最初は3期が選ぶ側ということだったので聞いている際にけっこうシビアに聞いていたのでしたが、5点を勝ち取った矢野さんのプレゼンが圧倒的に印象的でしたし、群を抜いてよかったと思います。
 具体的に何をやるのかということもわかりやすかったですし、またそのアイデアも既存のものにはないものでなおかつ実現可能性が高そうでした。
 あとプレゼンを楽しそうにやってたのもよかったです、自分のアイデアにそれなりに自信があったんじゃないかなーと見て取れました。

 あとは、全体にけっこう言えることだと思うんですが、今回の僕のブログタイトルの「数字」なんですが、やっぱり全体的に数字を意識しきれてないんじゃないかと思いました。
 既存の市場規模とかそんなものはググれば誰でもわかるわけで、その市場とその他の要素(ターゲット層の人口とか、類似市場の期間別の売上高とか)を絡めて具体的にどれだけの期間でどれだけのお金をとることができるのか。ということに意識が向かってはないのかと。
 
 もちろんどれだけのお金をとることができるのかという計算は、経営学やマーケティングとかをガチで勉強していないと完璧にできるもんじゃないのは理解の上ですが、田村さんの話し方からするに、「具体的なお金のデータがもっとあれば説得力は持たせることができる。」ということは学べました。
 ですのでもっと多面的な面で収益性、そして金先生が提示していた「仕組み」に関わってくるお金を回収する「仕組み」にも注意を払わねばならないのではないかと、実感しました。

2010年6月25日金曜日

【0625ゼミの感想】自分像【戸高】

 かなり刺激的なゼミでした。ビジネス的な視点の重要さ、自分が何をしたいのかとオリジナルに言うことの難しさ、そして自分と言う人間の魅せ方などなど、学ぶことが多かったです。


【バンナムプレゼン】
自分の班以外の4班について書きます。

①ミクロラ21/「五感で思い出を記憶する」
 はい、僕の大好物です、思い出。黄さんが指摘していたことがすごく印象に残りました。

「嗅覚と思い出をマッチングさせても、その時の思い出と、今出てくるその香りと果たして感じる印象は同じなのか?」

 知識社会学的観点からすると、自分の記憶や思い出というものは一定のものじゃないんですね。

「思い出はその場で再構成されるもの」

 という様に、自分が思い出や記憶を意識したとき、まさにその瞬間に作り替えられるというのです。
 どういうことかというと、例えば自分が修学旅行に行った時、京都の鴨川で告白をしたことが深く記憶に残っているとします。
 でもいくら深く記憶に残っていても、普段から頭の中にとどめているわけではなく、ふとした時に思い出すものであったりします。
 ある日、家でテレビを見ていると京都を舞台とした青春ドラマがやっていたとしましょう。するとその青春ドラマで鴨川が映りました。
 はい、そこです。まさしくこの瞬間にあなたは修学旅行での告白のことを思い出すわけです。
 しかし、そのシチュエーションは数年前の鴨川と、テレビで今見る鴨川とよく似ているようであって全く違うものです。
 だからその時の記憶はそのテレビを見た瞬間に再構成されるので、ただ同じ記憶というものは1つもなく、イメージするならば「記憶は積み重なって行く」感じです。
 そのときそのとき思い出した記憶がかつての記憶の上に積み重なって行き、新たな記憶、思い出になって行くといった感じですね。

 だから嗅覚とその時の思い出がそんなに感情的にマッチしなければならないということもないと思います。むしろいろんなオプションがあってもいいくらいなのかもしれません。
 あと、ネガティブなイメージのタバコも僕にとっては思い出を呼び起こすスイッチになっています。ピシェの匂いを嗅ぐと◯◯を思い出したり、マルボロだと■■だったりと、タバコの銘柄はけっこうその人の個性を表しているものではないでしょうか。

②もえもえ☆ましゅまろ
 今日コメントで言ったpixivのdrawrのことを書いておきます。

drawr:http://drawr.net/

 これはほんとにこのサイトに行くだけでお絵描きをできるというものです。CGやペンタブ等がなくても誰でも簡単にお絵描きをすることができるという、ハードルの低さがポイント。

台詞無しでリレーマンガを描くスレ:http://drawr.net/show.php?id=1490567

 このように、(ログインしないと見れないかもですが)みんなでマンガを書いて行くことも可能です。自分では思いもしないような展開で話が進んで行く、まさしくソーシャルな感覚を感じることが可能かと。
 
 やっぱりdrawrの革命的な所は専用のペン等なしで、そのままマウスで(指で)描くことができる点だと思います。
 もしペンタブ的なものを有償で提供するのならば、どうしてもそれが欲しいと思わせるような気持ちを抱かせる必要があるのではないかと、それだけで参入障壁をあげてしまうことになるので。

③ぶっとびDAI
 位置ゲーだと真っ先に思いついたのは「コロプラ」でした。(参考記事)
 コロプラの中にはコロニー内の人口やお金、慕われているかどうか等の軸で競争心も芽生えていれば、自然と助け合う仕組みができていたり、さらには東京メトロとの提携もあったりなど、かなり先を越されている感はあります。
 これに勝つためにはやはりRPG性という「冒険」「成長」「協力」といった面を強く打ち出して行かねばならないのでしょうがデジタルサイネージと掛け合わすといった手法で日常をアドベンチャーにするといった発想で差別化はいくらかは可能なんじゃないかとも思いました。
 しかし、栫井さんの指摘にもあったように、なかなかQRコードなどを読み取らせるための仕掛けは難しいので、QRコード周りをバンナムのリソースを使って面白楽しいものにしたり、もしくはARGのようにデジタルゲーム外のリアルの世界にもこちら側が物語を付け足してやる等の工夫が絶対的に必要だと思います。

④難題、Bam!Co.
 グループ名、好きです。

 パソコンの整理整頓はそこまでニーズはあるのかとか疑問に思ったりもするけども、面白い発想だと思いました。
 遥か昔にはバーコードバトラー、少し前にはモンスターファームだったり、バーコードやCDがキャラクターやモンスターになるといったものはありました。今回はいらないファイルということで、どこかバーコードバトラー、モンスターファーム世代としてはわくわくする所があります。
 個人的に整理に困っているのはサイフの中のレシートだったり、映画の半券、観光チケットなど思い出なので捨てるに捨てられないもの達だったりします。レシートバトル!とかできませんかね、アイデアベースですが。

 ジョジョ立ちプリクラはとったことがない(むしろプリクラとほとんど縁がない)ですが、大学1年の冬の制服ディズニーシーをやった時に、なんかのオブジェの前でジョジョ立ち写真を撮った記憶はあります。
 なんなんでしょう。ジョジョの面白さってもちろんジョジョ立ちとかもあるかもですが、プリクラを撮る際に、「時よ止まれ!世界(ザワールド)!」とか言ってくれるとテンション上がったりするかもですよね。
 バンダイの本社のエレベーターってすごく変わっていて、エレベーターのアナウンスがアムロ・レイの声だったり、バンダイ関係のキャラが喋ってくれるんですよね。それだけでテンション上がりました。

 バンドアプリに関しては、任天堂DSのバンドブラザーズといかに差別化を行うのか、スポーツクラブ×アーケードに関してはいまいちよく見えてこなかったですが、脱ゲームながらも楽しみながらガチ運動っていうところが肝だったのでしょうか。


【猪子さん】
 僕もかくありたいなーと思う所がある人でした。
 僕はふだん、あまり真面目な話をすることが好きではありません。馬鹿な話をしてた方が楽しいですし、気持ちいいもんです。もちろん必要に応じては真面目な話もしますし、相談とかもバンバン乗るタイプなんですが、自分から話しかける時はとにかく馬鹿な話をしておきたいのです。
 でも馬鹿なことしか考えてないわけではなく、いざ頼られた時には相手の目線に立って、なんにでも答えることができたり、自分なりの言葉で説明することができる様に日々努力をしていたい。とも思っています。

 猪子さんはまさしく能ある鷹は爪を隠すというか、ところどころ適当じゃないのか?と思わせながらも、言葉の節々に学生である僕らにもわかりやすい話し方と目線が入っていて、シャープな意見が入ってくる。まさしく理想の象でした。
 
 その域に立つにはもちろん天性の才能や、生まれ持った人柄等様々あるとは思いますが、今日ご飯の際に金先生がおっしゃっていた「頭のよさは鍛えることができる」という言葉にあった様、今自分の頭が社会で全く通じないレベルであっても、日々様々なことを考え、検証し、実行するということを意識的に繰り返していれば、いくらでも鍛えることは可能なんじゃないかと思うんで、常に何かを考えていたいと思います。

2010年6月20日日曜日

【0618ゼミの感想】テレビの未来【戸高】

【NCテレビ視聴率と広告】
 今回tsudaらせていただきましたが(http://twitter.com/kimsemi)、あとで読み返してみるとustで確認しなおすよりも手早く確認できるのでよかったです。ustは臨場感、twitterは手早く内容をさらう感じで上手く住み分けができているのではいかと思います。

 個人的には議論の中の、村山君が言っていた「テレビは家族で見ることを前提にしているので家族全体に訴求することができる、ネットは個人で見ることが前提なので、個人に訴求することができる。」と言ってたことが、ただのテレビ視聴スタイル以外の点に着目していたのでおもしろかったです。
 かくいうテレビも今や単身世帯が1500万件を増加し、またみなでテレビを囲んで番組を見るといった習慣も薄れているのでテレビが家族に訴求するものといった時代も古くなってきているのかもしれません。
 

 でも個人的にはテレビをみんなで見る行為というものはそれなりに好きなものでもあります。友達とskypeをしながらテレビ番組を見るのとかなかなかおもしろいですよ。
 で、こういう風に人と共有しながら見るのがおもしろいテレビ番組には特徴があると思います。
 1つは「クイズ番組」。みんなでわいわいとこれはこうだ、あれはああだ、実はこれってこういうことにも繋がってるんだぜ、と言った様にみんなの知を競わせる型の番組は1人よりも大人数で見た方が楽しいです。
 知を競わせるということはある種のクラウドソーシングであって、自分になかった知見を皆が発展させて行く感覚に近いのかもしれません。今のクイズ番組でも、クイズを「答えさせる」という点での視聴者参加は行われていますが、もっとその背景知識や、うんちくまでも共有できるような仕組みがあればおもしろいのかもしれません。
 もう1つは「スポーツ番組」。パブリックビューイングや、スポーツバーがあれだけ盛り上がっているんだから、もっとテレビでもそういった盛り上がりを起こすしかけをつくることはできるんじゃないかと思います。
 全お茶の間が1つに!といった感じで、テレビに光回線がつながればそういった仕掛けを作ることができると思います(もちろんテレビという公共の電波を使っているので、その責任は大きく、倫理的な問題が出てきて難しいとは思いますが)。
 twitterでも今回のW杯にちなんで、「未来を書き換えろ(http://nike.jp/football/future/)」などの様々なキャンペーンが行われていますが、もっと広いレベルでお茶の間が繋がるプラットフォームができればいいのではないかと思います。

【槙徳子さんのお話】
 アナウンサーは、確かに書かれた原稿やカンペをそのまま読むのがまず第一の仕事かもしれない。しかし、それをただ読むだけでは伝わらない。落ち着きがありながらも抑揚のある声と話し方があってこそのアナウンサーだと思う。
 槙さんはプレゼンをしていただいた時以外の話し方も相手が聞きやすいような話し方をされており、驚きました。
 自分はいつもプレゼンをする際に早口になる傾向があり、自分のお国柄としてそれが聞き取りやすくいいかなーと思っている自分もいまいたが、やはり皆に聞きやすい話し方をしなければならないのだなと実感しました。

 インターネットとテレビの融合のイメージは?と槙さんが最も知りたがっていたことにありましたが、「ユビキタステレビューイング」にあるんじゃないのかなと個人的には思います。
 インターネット自体が「ユビキタスコンピューティング」と言われ、いつでもどこでも接続可能なものになろうとしている今、それにテレビが繋がるといつでもどこでもテレビがあるのではないか、といったという安直な発想ですが。

Check out this SlideShare Presentation:

 この発想は去年のアクトビラプレゼンを行った際のアイデアに近いものがあります。テレビは家でも、携帯電話で外でも見ることができる時代になった。ならばどこでもアクセス可能なテレビを自分の生活基盤として扱い、1つのプラットフォームになるのではないかという考え方です。
 テレビと言うデバイスを通じて、留守番をしている子供の面倒を見たり、オンラインショッピングをしたり、冷蔵庫の中身とテレビが繋がっていて、料理番組のレシピと必要な食材がどれだけ冷蔵庫にあるかわかったりなど、テレビを家電というものとして見る。
 そしてその要素はいつでもどこでも携帯電話でチェックすることが可能で、外にいながらもいつでもどこでもテレビと繋がることができる。
 そんな未来が来てもいいんじゃないかと、個人的には思います。

2010年6月10日木曜日

【ホンヨミ!】社会学の名著30【戸高】

竹内洋著『社会学の名著30』

 社会学でこれだけは読んどけ!といった名著の解説本である。これをだらだらと書評を書いても意味がないので以下雑感。

 「社会学は断定と絶対とはほど遠い。」本著の中で筆者が言っていた言葉だ。僕はこの言葉に違和感を抱いた。
 むしろ様々な社会学者の言説を読んでいて、かなり断定的な印象を受けるからだ。
 断定的であるからこそ時代によって矛盾、また整合性がとれ議論が盛り上がり、次の社会学の発展するのではなかろうか。

 この名著30の中で、デイヴィッド・リースマン『孤独な群衆』がおもしろかった。
 群衆の中にいるのに孤独を感じるとはいったいどのようなことなのか。社会的性格という切り口でリースマンはこの議論を進めて行く。
 社会的性格とは同一の階級や地域、集団、国家に属する人々が共有する性格だ。例えば官僚体質、国民性、男らしさなどがある。
 ではこういった社会的性格はどういったタイプで身に付くのか。その類型は3つある。

①伝統志向型
 過去に共有される慣習等の伝統に同調することで行為をする
②内部志向型
 工業化社会により、伝統志向型が不適になる。選択の幅が広がるので、慣習が通じなくなるから。
 幼年期に年長者によって植え付けられた一般的な目標(職業に献身、世の中でひとかどのものになる)が内面の声という羅針盤となって行きていく。(ウェーバーもこれを提唱)
③他人志向型
 他者との付き合いが協調される時代に(第三次産業の増加)。他者とは友人や同輩、そしてマスメディア。
 
 このタイプの人間が目指す目標は「他者からの信号に絶えず細心の注意を払う。」
 レーダーを内蔵しているかのように例えられ、外見だけでなく、他人の気持ちを細かく斟酌しようとする。恥(伝統志向型で感じるもの、習慣を破ることは恥ずかしい。)、罪(内部志向型で感じること。みなが職業的献身を行うのに働かないことは罪だ。)よりも不安が伴う。

 こうした他者からの信号に絶えず細心の注意を払うことで、我々は群衆の中にいても孤独を感じる様になる。つまりは常に他者を意識することで監視される立場にもなるのだ。
 総監視社会が叫ばれて久しいが、SNSなどにより、確かに幅広い自己表現、自己実現、自己開示などができる様になったかもしれない。
 しかし一方で、常に他者の目を気にし、自分を自由に表現できないことも増えていると感じている人がいるのも確かだ。
 技術の恩恵を受けずに振り回されるのではなく、ちょうどいい距離の取り方をもちながら技術と接して行かねば、人が作り出した技術に人が食われることとなるだろう。

2010年6月6日日曜日

【ホンヨミ!】コミュニケーション——自由な情報空間とは何か (自由への問い 第4巻) 【戸高】

北田暁大編『コミュニケーション——自由な情報空間とは何か (自由への問い 第4巻) 』

 情報空間における「自由」について幅広く書かれた本。もちろんここでいう情報空間とは勘違いしがちな「インターネット」におけるものだけではなく、新聞、テレビ、雑誌、インターネット、いわゆるメディアが織りなす空間のことを言っている。
 とは言うものの、今関心があるのが主にインターネットにおける空間(サイバー空間)における情報空間だったので、そこに焦点を絞って今回の書評を書かせていただく。主に注目する点は2つだ。

①インターネットに民主主義は成立するのか。

 インターネットにおける特徴の1つに匿名性というものがある。これがあるからこそ、ネットでは多様な言論が飛び交ってはいると考える見方もある。
 しかし、インターネットでは自分で情報を獲りに行くことが基本とされているので、自分の好きな、興味のある言論のみどんどん聞いて行くことになる。結局ネットは分極化傾向を煽るだけで、集団の対立が激化するのではないか?といった問題提起をすることができる。
 では実際の社会空間はどうなっているのか。社会空間はきれいごとで溢れている。マスメディの偏向報道しかり、人と人同士が対面でコミュニケーションを行う際もなかなか本音を言うことができず、なあなあな意見しか述べることができないと言ったことはある。つまり激しい言論をふるうのは難しい。
 それはなぜか。誹謗中傷の的になり傷つく恐れがあるからだ。だから匿名掲示板の議論はニヒリズムになる。社会に置ける自分の存在を傷つけることなく社会復帰できるから、リスクが少ないためだ。
 しかしただ単に無秩序なわけではない。インターネットは風通しがいい空間であり、だからこそ、タブーとされているような情報が流通する空間でもある。
 権力者しかアクセスできなかった「リアル」な情報に対してインターネットにより誰にでもアクセスできる様になった。
 さらにアクセスするだけでなく、誰にでも発信できる様になったことで、よりリアルな情報が流れる様になった。昨年、イラン選挙に関してで報道規制が敷かれても、twitterやyoutube、flickerでマスコミによるものではなく、一般人による情報交換がされていたのがその例だ。

 これを考えてみると、一概にインターネットに民主主義が生じないと考えることは無理だろう。
 そもそも民主主義とはなんなのか。大辞泉にはこう書いてある。

人民が権力を所有し行使する政治形態。古代ギリシアに始まり、17、8世紀の市民革命を経て成立した近代国家の主要な政治原理および政治形態となった。近代民主主義においては、国民主権•基本的人権•法の支配•権力の分立などが重要とされる。現代では政治形態だけでなく、広く一般に、人間の自由と平等を尊重する立場をいう。デモクラシー。

 「人間の自由と平等を尊重する立場」とあるように、インターネットは実社会よりも「自由な」空間であろう。匿名である、つまり実社会の自分からの自由を求めて人はインターネットでコミュニケーションを行う。この意味では民主主義が成り立つことになる。
 少し政治的側面へも目を移すと、「諸個人の意思の集合をもって物事を決める意思決定の原則・政治体制をいう。」とwikipediaにはある。
 「みんなが集まってなにかやろうぜ!なにかうみだそうぜ!」といったような、今まで受け手であった立場の人間が生産する立場にもなるという、「生成力」の場としてのインターネットも「自由」な空間であるからこそ様々な創造性が高められているのだろう。
 しかし、完全に「自由」であれば、生成力が育まれるといったものではない。例えば濱野智史氏によるニコニコ動画のタグのカオスさから生まれるニコニコ動画全体の生成力の論考からも見て取ることができる。
 ニコニコ動画のタグが従来型の「誰もがいくつでも自由に付与できる」蓄積型のそれではなく、動画ごとに「最大10個まで」でありながら「誰でも自由に削除できる」という点が特徴的だ。こうした10個という制限と、誰でも削除可能という自由が相まって創造性が高まって行く。
 こういったインターネットにおける民主主義、生成力を高めるためには、完全に設計者側が手を出さないという方法もあるが、なんらかの手を加える(自由と制限を与える)ことでよりよい効能を与えることができるのではないか。

②サイバーシティにおける自由

 サイバーシティの定義は、インターネット上で形成されるコミュニティのようなものをイメージしていただきたい。
 
「都市は観光客向きの文化的幽霊としてならともかく、もう実在しない」

 これはマクルーハンの言葉だ。この言葉はどういう意味かというと、「どのハイウエイの食堂にもテレビがあり、新聞があり、雑誌がある。それはNYやパリと全く同じ様にコスモポリタン(国際的)だ。」といった彼の言葉からわかるように、都市の社会的機能がメディアの中に移転してしまい、都市に人や情報を集める必要はもはやなくなってしまったということを示す。
 つまり、都市を結び目として土地空間上に存在してきた人と物と情報が流通するネットワークと、そのネットワーク上で都市に担われてきた情報の集積、交換、組み替え、共有、発信と言った機能が20世紀の世界ではマスメディアのネットワークによって代替されるというのだ。
 そして21世紀、こうした都市の機能がマスメディアだけでなく、インターネットにより代替されているということもできるだろう。簡単な例だとAmazon。買い物を行うという市場の機能。そして自分が欲しいものがどのような評価を受けているのかを知る口コミや広告の機能がAmazonというネット上の市場1つで代替されている。
 このように注目が集まるサイバースペースにはどのような自由があるのか。主に4つあると本著の中には書いてある。

1物理的な世界からの自由
 情報技術の高度化と普及によって、人間の歴史がとらわれてきた身体性や物質性からの解放がもたらされる。サイバースペースが可能にする情報空間が物理的な空間と並行するパラレルワールドになる。
2時間と空間からの自由
 コンピューターネットワークによるリアルタイムでの情報の送受信が地理的な距離を無意味化し、世界的な規模での自由主義経済が展開するという「空間と時間からリアルタイムへ、距離の死と新自由主義的グローバルエコノミーのユートピアニズム」。自由の勝利による一つの世界の出現。
3民主主義的な自由
 「サイバーリバリタリアニズム」アルゴアの情報スーパーハイウエイのような、高速の双方向通信網によって、真の自由主義的民主主義が可能になるだろう。地球規模での民主主義が、高速通信がインフラとなって可能となる。
4自分の身体からの自由
 人間の身体が端末を通じて情報ネットワークと結びつくことで、人と人との対面的で身体的な出会いと関係はもはや社会関係の基盤ではなくなり、端末を通じての沿革的な現れ(テレプレザンスをもつ端末市民、ターミナルシティズン)が住む、空間的限定を越えた「限界なき都市」が現れる。ここではサイボーグという言葉が表す様に、メディアとそれらが仲立ちするコミュニケーションのネットワークが人間の身体と結びつき、その不可欠な一部となることで、人間と都市の双方が場所性や領域性の限界を乗り越えるとされる。

 もちろんこういった自由な側面があるにもかかわらず、この論の弱点も存在する。
 例えばサイバーシティ論があり、物理的な世界よさらば!といったような風潮が高まっているのにも関わらず、「あれ?でも1900年から2000年にかけて世界の都市人口が10%から50%に増えているんだけど?」と言われればそれでしまいだ。
 他にも情報技術というものに焦点を当てすぎるがあまり、「シティ」というからには重要になっている「場所性」にあまり焦点が当てられなくなっていることや、実社会に関する論が薄れていること等、弱点をあげればきりがない。

 ではなぜサイバーシティに注目が集まるのか?
 それは、実世界と同じような組織や人間の消費行動が行われ、そこでの関係のあり方がより小規模な村や多くの人や場を尋ねるには長い距離の移動が時に必要な国よりも多くの集団や組織が高密度で集まり、多様な関係の可能性に開かれた都市に似た側面をもっているからだ。
 サイバースペースの都市性は、「大量、高密度、高異質的な人口を要する恒常的集落」という社会学における都市の古典的な定義に一致する。
 だからサイバーシティ、再バースペースも、都市の人口の多さと場の多様さ、見知らぬ人と見知らぬ場所の多さ、そこで出会い得る出来事や機会の多さが都市を様々な出来事や関係の可能性を内包した「自由な場所」となることを可能にするのだ。

 そこで得ることのできる自由は先程述べた4つの自由となるが、自分からの自由、別の自分への自由(実社会での顔や名前等を捨てて人と交流できる)といった所が、もっとも意識しやすい、そして追い求める自由ではなかろうか。
 別の自分になることができるからこそ、実社会では無理だった自己実現が可能になる。だから人はサイバースペースに幻想を抱くのではなかろうか。

 
 

2010年6月4日金曜日

【0604ゼミの感想】魅力的な3D、本当にそうかな【戸高】

【NCフェアユース】
 技術革新とビジネスモデル革新が起こり、今までになかった価値を生み出し収益をきちんと生む。
 イノベーションとはこのようなものだという。今まで自分で本を読んで描いていたイノベーション像は、「新たな技術で社会に新たな価値をもたらし、しっかりとお金ももらう。」といったようなものであった(収益を生まねば意味がないというのはA・Gラフリー、ラム・チャラン著の『ゲームの変革者』を読んで得たことだったが)。まずここをしっかりと理解することができてよかった。
 
 何か議論をするとき、自分達がよく理解していないのに言葉の定義を横においておくと、あとで絶対にツケがくる。今年に入ってからそのことをよく実感する。
 まずは言葉の定義(特にカタカナ語の場合は注意な気がする)をしてからお互いの共通理解を得てフラットな場から議論を展開すべきだろう。

 技術
 ↓
 ビジネス
 ↓
 政策

 の順番でスピードが速いというのも、当たり前であるが、忘れがちな指摘の1つだった。
 イノベーションが起き、それがビジネスとして利用されるまでタイムラグがある。そして、そのビジネス、技術を国が有用だと思い、国策として利益をもたらそうとするまでもタイムラグがある。
 ビジネスから政策までのタイムラグが長ければ、政策による支援もなくなり、技術、ビジネスが育たなくなってしまうと言う指摘は最もだろう。
 
 そして、それを政策にしろ、技術にしろまずは人に知ってもらわねば意味をなさない。という指摘に繋がる。
 政治家がわけのわからないラジカルなことを言っていても、論を通ったことの言っている政治家よりも注目される。マスコミはそれをおもしろいと焚き付けるからだ。
 だからその政治家は広くは指示されなくとも、絶対に10人いれば2人には指示される様になる。そうすると、他の理路整然とした能力のある政治家がいても注目されないため、ラジカルで「おもしろい」政治家が当選してしまうという。
 
 これは実はマンガにもあてはまるおもしろい図式だと気付いた。
 週刊少年ジャンプなど、少年誌には雑誌により「アンケート制度」というものがある。自分が雑誌を読んで、気に入った作品3作に投票する。編集部側は、その投票の人気結果を見て、この連載を打ち切るかどうか、といったことを決めて行く。
 ここで、もちろんアンケートで1位、2位と上位を奪う、「超人気」マンガになるためには10人中全員や9人に投票されるような作品を書いて行く必要がある。
 しかし、連載を続けることができる「人気」マンガの水準を保つには2割の投票を獲得すればいいとのことだ。連載作品数が20もあるのだから当然と言えば当然なのだが。

 そう。だからまずは人気を得る、人に広く知れ渡るには制度が邪魔をしてはいけないのだ。広く知れ渡る機会を長く奪ってしまう可能性があるのが現行の個別規制。まず社会に出すのがフェアユース。
 この意味だけでもフェアユースを導入する意義はあるのではなかろうか。

【NC3D】
 3Dがもてはやされるのにどこかしら微妙な感じを抱いています。
 今現在、3D化されている作品はアバターといった超大作であったり、バトロワが3D化されるといったことでしたが、これも大味な作品であります。
 よくハリウッド型と日本型の映画製作と、かけるお金や権利処理などことで言いますが、3Dに向くのは大味で、お金をかけたハリウッド型の作品だと思います。
 この3Dブームで日本映画の更なるハリウッド化が進むのではないかと少し懸念してしまいます。

 また、本日のディスカッションはコンテンツに注目したものでしたが、

・コンテンツ制作側
・メーカー側
・その他プレイヤー側

 といった風にわけても議論ができたのではないかとも思います。
 コンテンツ制作側はもちろん今日話した様に、どのようなコンテンツが3Dに適しているのかといった話。

 メーカー側(デバイス)はテレビなどの映像機器を作っている、技術を持った側がどのようにエンパワーメントしていくのかといった話。
 例えばパナソニックが、3Dへの編集まで請け負うといったようなニュースもありました。技術をもつメーカーだからこそ支える必要があるのではないかと思います。

 その他プレイヤー側は広告代理店や通信側なども。特に、今日の発表を2班が言っていたのは、目線がプロモーションの方に向いていておもしろいなとおもいました。3D専用眼鏡を無料で配って3Dへの敷居を低くする。まさにフリービジネスですよね。
 あとはAR空間を用いても3Dのことを利用してもらう、知ってもらうための敷居を下げるための1つの道具になるのかもしれません。
 臨場感等の3D的特色はなくとも、立体映像が3次元の中に出てくるといったことを知るため、体験するためのいいきっかけ作りにはなるんじゃないでしょうか。


 あと、最近のNCでディスカッションなり、ディベートなりが増えてきますが、交流+自分がもっていなかった気付きをもつ等いい面もたくさんあるとは思いますが、失われている面もあるんじゃなかろうかと思います。失われていると言うか、さらに善くできるけど少しもったいない面と言いましょうか。
 ディスカッションやディベート等を行って、何か問題点や1つの解決策が出てくる。
 でも、現状ではそれが出て終わりなので(もちろんNC担当者からの意見の提示は素晴らしいと思います)、少しもったいないかなと。
 せっかく問題ないし、解決策、提案が出てきたならば、またそれにどんな問題があり、どうアプローチして行くべきなのか、他にどのような切り口があるのかと言った所まで、全体で話し合うことができればベターなものになるのかな、と個人的に思いました。

2010年6月3日木曜日

【ホンヨミ!】空間メディア入門【戸高】

平野暁臣著『空間メディア入門』

 空間メディアとはなんなのか。まずはここから入らねばならないだろう。空間自体はまさしく僕たちが生きている場所だ。
 ではその空間はどのような役割を担っているのか。主に3つある。

・メッセージを伝える
・コミュニケーションを媒介する
・アクティビティを誘発する

 こうした役割を担っている空間を「空間メディア」という。特定の空間に人間を集め、固有の体験を提供する。空間に情報を織り込み、体験を通じて相手とコミュニケートする。つまり、情報を出来事としてつたえるのが空間メディアだ。

 役割はわかっただろう。では具体的にどのようなものが空間メディアなのか。美術館や展示物、博覧会などは空間メディアの代表物だ。
 しかし、これらの空間メディアの中に、あまり「空間メディア」らしさというものを有効活用しているものは少なかった。
 展示物と言っても、パネルにつらつらと説明文を書く、いわば情報を垂れ流しにしているだけでは意味がない。いまや情報の垂れ流しはインターネットで十分になっているからだ。
 昔は情報というものが本で調べる、見識のある人に聞く、美術館や博物館の展示を見て仕入れるといったように、アナログな手段でしか得ることができなかった。
 しかし今となってはインターネットの登場で、情報は獲得しに行くものになった。インターネットの登場によってメディアの生態系が変化したのだ。空間メディアは空間メディアにしかできないことをすべきで、また生態系に適応して行かねばならない。
 
 では空間メディアしかできないこととはなんだろうか。それを考える前にもう一度定義を確認しておきたい。
 空間がメディアであるとは?これはなんなのだろうか。
 「あらかじめ用意された文脈を伝えるために設けられた空間。空間そのものが情報を伝える機能を果たす。」ということが定義できるだろう。つまり「空間で語る」とは、情報を空間体験として伝えることができるか。
 ただ情報を伝えるのではなく、体験させる。言わば共有するというのが近い認識なのかもしれない。

 ならば空間で情報を体験させる、共有するために必要な要素とは何だろうか。本著の中では以下の3つが挙げられていた。

1空間性:3次元空間の特性を活かした情報環境が構成されている
2身体性:視覚的に見るだけでなく、体感的なファクターがあること
3参加性:送られてくる情報を受け身で受け取るだけでなく能動的に関わる

 まさしく、「空間」でしかできないもの、体験であるための要素だろう。メッセージを伝えるのはあくまでも「空間」であり、展示物やパネルではないのだ。

 例えば、焼き肉屋を考えてみよう。みなさんはどのような焼き肉屋に足を運んでみたいか。
 もちろん値段が安い、味がうまい、サービスがいい。こういった条件が真っ先にあがるだろうが、このような条件が全て揃っている2店があったとしよう。
 片方の店は「特選A5和牛で、産地は◯◯!エサは△△を与えて育てたブランド和牛を提供します!」といったようなパネルで勝負をしている。
 もう一方の店は特にパネルはなく、店外に「じゅーっ」という肉の焼ける音と、香ばしい肉の香りを漂わせている。音と匂いだけでごはん3杯はいける!といったような感じだ。

 さて、みなさんはどちらの店に足を踏み入れるだろうか。僕なら後者に足を踏み入れる。
 前者の店のタイプ、つまり「能書きを垂れるタイプ」は、理性で返されてしまうのだ。「ふーん、だからなんなの?そんなの他にもあるよね。」と言った風に。
 一方、後者の店のタイプならば理性ではどうしようもできない。反射行動は理性でコントロールすることができないのだ。

 このように、匂いや音というものは空間がもつ3つの要素を表すいい例だろう。3次元空間でしか表現することができず、体感的なファクターがあり、能動的に関わることができる。
 しかし、能動的に関わる部分になかなか工夫がなされていないのも現状だ。よく展示会などでもさわることができますよ、ボタンを押せば音が出ますよ、と参加性を出す試みが見られてはいるものの、どうも形式的なものに収まりがちだ。
 ではどのようにすればこのような形式的な参加性にならなくて済むのか。そのためには空間メディアがもつ3つの他のメディアに勝るであろう特性を活かすべきだ。

1体験を通して実感を伝える=わかるメディア
2対話を通して関係をつくる=顔の見えるメディア
3触発を通して発見を促す=背中を押すメディア

 以上が空間メディアが他のメディアに勝るであろう3つの特性だ。

 インターネットやテレビ、本等は知るメディアということができるだろう。情報を探し、そして認知する。しかし、空間メディアはその知る行為からわかるといった理解の段階まで高める。それは実際に体験としての実感というものが大きいだろう。

 そして、リアルな空間だからこそできる特性の最も大きいものとして、「顔の見える」といったものがあるのではないだろうか。
 例えばCDやカラオケの印税で食べて行くことができる大御所バンドでも、ライブ活動を行うのはなぜか。それはライブでしか得られない経験があるからだ。
 歓声、笑顔、拍手、大合唱、手拍子等、観客からのダイレクトな反応、ともにいる感覚、空気。これらはライブと言う場を共有しない限り、感じることができない。
 もちろん観客側もそうだが、観客の数が多くなればなるほどその熱狂は増して行くが、ミュージシャンとの距離は遠くなる。ミュージシャンとの距離は路上ライブだと近いが、武道館や東京ドームだと遠くなると言った様に、多くの人に届けようとすればする程、距離は遠くなる。その空気をいかに伝えられるかは接触数と反比例するのだ。

 これはライブ独特の特徴でもあるが、これを展示に置き換えるとそういった接触数との反比例をおさえることができる。一度作ってしまえば同じ状態、効果をキープできるからだ。例えば万博のパビリオン、あれを1度作ってしまえば数百万人の人が共同の体験をすることができる。これは大量の観客に情報を伝える際には都合がいいが、インタラクティブさが弱まるといったことが難点としてあげられる。

 ではそういった展示型の空間メディアをいかにして参加性の高いものにしあげればいいのか?「その答えは観覧する道順をはじめから設けない」といった解決策がある。
 普通の美術館などは美術館に入ると年表順や、作者のカテゴリ毎によってなど、はじめから回るルートが決められている。時間軸が神の視点によって定められていると言っても過言ではない。
 しかし、川崎市にある岡本太郎美術館でははじめから一筆書きでは回ることができないようになっている。迷路のような構造になっており、観覧者が好きな順序で自分達の物語を作り上げることを可能にしているのだ。
 このタイプの、「観覧者が自分で物語をつむいでいく」展覧会は確かに自分が参加したものでも、「参加してる!」といった印象が強いものが多かった。





 これは昨年、六本木のミッドタウンで行われていたとあるイベントなのだが、開場全体が雲のような綿で覆われており、その回る道順は雲の迷路をたどって行くようなものであった。
 コンセプトが一貫し、伝えたいメッセージが明らかになりながらも、観覧者の回り方により自由にストーリーを紡ぐことができる環境で、実際とても楽しかったのを覚えている。

 このように、参加性を高める工夫までは述べてきた。ではデジタルメディアを全く無視してもいいのだろうか。
 筆者は「デジタルメディアと空間メディアは「代替」ではなく、「補完」しかし蜜月でない。言わば、「競争関係」にある。基本的に陣取り合戦をしながらも、相手にしかないものは相手に任せる。」
 と述べていた。この考え方がしっくりするのではなかろうか。
 最近、AR技術の進展により、美術館や博物館でAR空間を活かし、復元したものを展示すればいいのではないか。といった話もある。確かにそれは博物館に人を呼ぶためには有効な手段として生きては来るだろう。
 しかし、それだけでは人は来ないだろう。AR空間があっても、それは3次元空間のみで伝えられることではない。バーチャルでやれといわれたらしまいだ。ARを用いつつも、一貫したコンセプトでメッセージを伝えつつ、観覧者が自由にストーリーを組み立てることが可能な空間を演出する。これをわすれてはならない。
 メッセージも。「◯◯だ!」ということを100%伝えるのではなく、「これって◯◯なんじゃないかな?」と言った様に考えてもらう型の方がいい。これが背中を押すメディアたる由縁だ。
 映画や小説、マンガ等も「これはこういうメッセージをつたえてますよー」などといったものはあろうか。あったとしてもそういったものは駄作が多くはないだろうか。押し付けがましいメディアになってしまっては意味がない。能書きを垂れてはいけないのはここでもそうだ。

 空間としての特性を活かしつつも、デジタルと協調していく。リアルとアンリアルの連動はここでも重要なトピックの1つだ。

2010年6月2日水曜日

【ホンヨミ!】14歳からの社会学【戸高】

宮台真司著『14歳からの社会学』

 なんやかんや書いてありますが、社会学というものは最終的にはその人の主観に行き着く学問ではないのかと実感した一冊。

 「社会」とはコミュニケーション可能なものの全体のことである。この作品の中で彼は何度もこう主張する。



 イメージとしては以上のような感じだ。人間がコミュニケーション可能な世界のことを社会。それ以外のものを世界であると。世界の中に社会が存在するのだと。
 では人間がコミュニケーション可能なものとはいったいなんなのかと言うと、彼はもちろん人間だと言う。私はここに少し疑問を抱いた。
 自然や都市、はたまた宇宙などの我々を取り巻く環境はどうなるのかと。環境と我々はコミュニケーションをとっていないだろうかと。
 むろんそういった環境を作り出すのは人間だ。ならば環境等を考える際、必然的に我々は人間のことを考えているということにもなる。人間を考えているからこそ環境のことを考えていることにもなる。どちらが起点でどちらが終点なのかということはなく、ぐるぐると回っている。
 人の行動に影響を及ぼすのも社会だ。「社会が悪いから。」とよく人は言う。しかしその社会を構成しているのも人間だ。つまりは社会の構成員である人間が悪いという所にも帰結してしまう。これも社会が人間に影響を与え、人間が社会に影響をあたえと言った循環構造を生み出す。
 
 しかし、人は「社会が悪いから。」と考えがちだ。これは現状の政治を見ていてもそうだろう。ちょうど今日(2010年6月2日)、民主党の鳩山由紀夫氏が内閣総理大臣職を辞任した。
 巷では鳩山政権になって、「日本が悪くなった。」と言った声もよく聞く。「辞めて当然。」と言った声もある。しかし、その鳩山由紀夫を日本のトップとして選んだのも国民なのだ。
 ならば、政治に対して国民一人一人がどうすることができるのかを考える義務がある。我々は政治とは自分に関係がないものと考えがちだが、コミットメントしている事実を思い出す必要があるだろう。
 
 日本国民とは「日本人みんな」のことだと言うことができるだろう。しかしここで「みんな」とはなんなのかを考える必要性が出てくる。果たしてみんなとは誰までをさすのか?これが現代社会ではわかりにくくなっている。
 「日本人のみんな」といっても、外国人で帰化した人は日本人なのか?といった話にも繋がる。また地域社会の疎遠化などの例にあるように、自分の身の回りの人間のどこまでが繋がっているのかということも希薄になっている時代だ。
 一方、インターネットの登場で「繋がり」というものが過剰に意識されている時代でもある。リアルでの繋がりは薄くなりながらも、アンリアルでは繋がりを求める。奇妙な時代だ。
 昔は(高度経済成長期)みんなの顔をイメージすることが容易だった。隣近所の付き合いがあり、家の前や公園では子供達が遊び、会社帰りの大人もそこに交わったりする。悪いことを子供がすれば大人が注意すると言った様に、自分が関わっている人間の顔が常に見えている時代だった。でも今は違う。
 社会学的にはみんな(公的)といった概念が成立するには2つの要素が必要だ。

1誰がみんなかについて、合意があること
2コミットメント(熱心な関わりがある)があること

 まず誰がみんなか、我々かということについて、「僕」「あなた」「彼」「彼女」が合意している必要がある。そしてその上で「みんなが生きて行くために、これが重要だ」といったコミットメントが必要なのである。
 今の社会ではそのみんなに関する合意が難しいからこそ、政治的無責任にもつながってくるのではないだろうか。つまり、コミットメントすることが難しい時代になっているのだ。
 それは政治だけでなく、自分が生きている場を考える時にも言えるのかもしれない。自分がコミュニケーションをとっている「社会」にたいして、自分はコミットメントしているだろうか。これを常に意識する必要があるだろう。

2010年5月28日金曜日

【0528ゼミの感想】プロフェッショナル【戸高】

 まずは本日ゼミに忙しい中来ていただいた福井健策氏にお礼を述べたいと思います。
 魅力的だと思う大人にまた1人出会うことができたと心から感謝しています。
 福井さんがおっしゃっていた「プロフェッショナルとは実践、言葉ではなく行動で責任を示すことができる。」ということを、自分自身、常に言葉よりもまず行動だと思い、態度を示そうとは心がけていますが、それを再び胸に刻み直したいです。


【NCメディアリテラシー】

 僕が2008年に論文でやったテーマと重なる部分もあったので、自分の意見をまとめ直す機会にもなりました。
 詳しくは以下のリンクから興味があれば見てみてください(http://mwr.mediacom.keio.ac.jp/kim/?cat=3)。

 そもそも、日本でケータイインターネットを通じたメディアリテラシーが注目され始めたのは、学校裏サイト問題、プロフ問題などがあり、そうしたサイトを一律に青少年相手に規制すべきだ!という風潮になりました。
 しかし、そこで国がその規制を一律にしてしまうと、「表現の自由」「知る権利」を侵害するのではないか。という問題にまた発展してしまいます。
 そこで政府ではなく、キャリアや第三者機関によって、フィルタリングの基準や教育施策などを決めるという感じで進んで行きました。

 こうして問題は解決したかの様に思われましたがまだまだ具体的に問題は残っております。
 実際に教育というものも、教科書作りは第三者機関もキャリアも行っておりますが、その足並みがそろってないというのも(共通した教育の軸がない)問題ではないのか。
 はたまた教育の軸がなくとも、逆に受け手側にどこの教育がいいのかと選ばせることができるし、各キャリアが強み等を活かしながら競争が起きていいのかもしれません。
 しかし、根本として地方自治体単位で、中学生や小学生に携帯電話の学校への持ち込みを禁止したり、ケータイインターネットの使用の禁止を打ち出しているような所もあります。
 ケータイインターネットはもちろん悪影響もありますが、自己表現や、自己開示、自己呈示的な側面もあり、使用すべきでもあるという意見があって、フィルタリング問題の話し合いがあったのにも関わらず、それを親のコントロールではなく地方自治体のコントロール下におくというのは時代に逆行してることがおきているのです。
 そういった足並みを揃える為の役割を政府という者が先陣切ってやっていくべきなんじゃないのかなと思います。

【福井健策さんの話】
 著作権は考え続けなければならない。この言葉に僕もはっとしました。
 福井さんは人はずっと考え続けて行かなければならない。思考停止状態になってはいけない。それは政治問題に対しても同じで、「誰かがやってくれる」では何も変わらない。
 法律、特に著作権法はデジタル化という時代の流れによって今最も変化すべき法なんじゃないのかと思います。そこをしっかりと問題意識をもって、ユーザーならばユーザー視点で考えて行く義務があるのでしょう。

 また音楽は著作権の一元管理が行われている。それは音楽は2次利用されやすく、幅広く使われるべき性質を持っている。だからこそいちいち許可を各方面に取るのはめんどくさいのでJASRACが一元管理をしている。
 では出版は無理かもしれないが、動画系コンテンツ権利も一元管理できる、というよりもすべき時代に来てるのではないか。動画編集ソフトが流通し、編集が簡単になり、2次利用されやすいコンテンツになっているのではないか。
 といってもここにはN次創作を認めるかどうか、またN次創作文化がもともとあるのかといって一元管理をすべきではないとの考え方があり、そこでクリエイティブコモンズなどが出てきたのではないかと思います。

 なんにせよ、福井さんには著作権に関して考え直すきっかけを頂けた以上に、人としての接し方や、話し方など対人的魅力も学ぶことができ、本当に充実していたゼミだったと思います。ありがとうございました。

2010年5月27日木曜日

【ホンヨミ!】嗤う日本の「ナショナリズム」【戸高】

北田暁大著『嗤う日本の「ナショナリズム」』

 「嗤う」という漢字をみなさん読めますか?僕は最初なんて読んでいいのかわからずググりました。「わらう」と読むらしいです。「笑う」よりも「嘲笑」的なニュアンスが込められているそうです。
 これは昨今の(本著の中では60年代〜70年代の学生闘争、80年代のマスコミが提示する価値体系を十分に咀嚼し、自分の記号的位置を演出するという、マスコミが演出する秩序のなかで位置取りをすることを求められていた消費文化、そして90年代の若者と順を追って説明しているが)若者文化、特に2ちゃんねるによく見られると筆者は述べている。
 ここでは「繋がりの社会性」というものがひとつキーワードとなって出てくる。

 90年代半ば以降になると、自らと非常に近い位置にある友人との繋がりを重視する様になる。と筆者は述べている。その繋がりは共通の趣味、カタログと言った第三項によって担保される物ではなく、携帯電話の自己目的的な使用に見られる様に(私はあなたとコミュニケーションしてるんですよー)、繋がりの継続そのものを目的としている。理念、共通価値の支えのない共同体が形成されているのだ。
 この現象を2ちゃんねる内では、マスメディアを、繋がるために、コミュニケーションの素材として消費する、としている。
 従来、情報を流し、ジャーナリズムの役割を担っていたテレビや新聞が、2ちゃんねる内のニュース実況板などで、アナウンサーの言動や、コラムニストの批評する態度等を何かにつけて批判し、それをAAや2ちゃんねる特有の言葉遣いを用いて、コミュニケーションを楽しむ為の1つのツールとなっていると言うのだ。
 つまり2ちゃんねるはマスメディアの為の内輪なのではなく、内輪の為のマスメディアといった構図を作り出している。

 では、このように、自分達が繋がる為に、マスメディア、もしくは日常をコミュニケーションのツールとして利用しているのは、2ちゃんねらーだけなのか?
 そんなことはないだろう。我々も同じようなことを無意識に行っているのだ。
 例えば電車に乗っている際に、明らかにこの人はカツラなのではないか、といったサラリーマンが自分の目の前に座ったとする。これを見てあなたはどうするか。
 もちろん何もせず、「あーカツラなんやなー。はげたくないなー。」と思うだけで終わりの人もいるかもしれない。しかし、このことをmixiやtwitterといったソーシャルメディア、もしくは誰か友人に直接メールで伝えるかもしれない。言わば実況を行うのだ。
 これは本質的には2ちゃんねらーの実況板での行為と何ら変わらない。繋がりを継続する為の行為だ。

 しかし、この繋がりを常時求める若者の傾向は、そしてそのような若者が作り出す共同体は果たして筆者が述べるような、「理念、共通価値の支えのない共同体」なのだろうか。
 僕はそうは思わない。先日の書評でも書いたが、アンダーソンの「想像の共同体」を成り立たせる条件として、

1同じ時間を生きている感覚(同時性)
2同じ境界の内部に属している感覚(限定性)

 があった。2ちゃんねるの実況はまさしく実況という「同時性」が重要になってくるし、その実況板にいるという「限定性」も担保されている。そしてその実況板に集まってくる人々は(特に実況を行う様な2ちゃんねらーはその板に常駐している人々が大半だろう)その板における目的、共通価値をもっているのではないか。
 むしろそういった目的や共通価値を彼らが作り出したのだと言ってもいいのかもしれない。AAや決まり文句等が生まれ、それがどのような文脈において使われるのか。また、極度に右傾化したような言質等もそうなのではなかろうか。
 このように繋がりを感じているからには、何かしらの共通の価値観があるのではないかと僕は思う。
 また、筆者は「その繋がりは共通の趣味、カタログと言った第三項によって担保される物ではない。」とも言っている。これについても僕は少し疑問を感じる。
 みなさんはtwitterなどでとりあえずのフォロワーを増やす際には何を基準にフォロワーを増やすだろうか。リアルでの知り合いとしかフォローしあわないといった人もいるかもしれないが、大半の人は自分の興味ある有名人や共通の趣味のある人を選ぶだろう。
 ここでやはり「共通の趣味」というものは重要視されているのではなかろうか。もちろんこの本が書かれたのは2005年で主に00年代前半までの若者文化についての分析がなされている本なので、まだソーシャルメディアというものが十分に発達していなかったのであまり意識しなかったのかもしれない。
 しかし、現在ではむしろ趣味といった物が以前より意識される物となっている。08年の論文活動を行っていた時に何かで読んだのだが、現在の高校生には、初対面の同級生などと会う時に、前略プロフなどで相手がどのようなことに興味をもっているのか等について確認してからでないと、話すことができないという者が増えているらしいのだ。
 このように趣味がより意識される時代になると、twitterという場で「想像の共同体」が作られるのではなく、自分がその趣味にあわせてフォロワーを選んだ、フォロワー同士の中でより細かい想像の共同体が作られているのかもしれない。(リスト毎になど)
 趣味を繋がりの社会性のために消費する時代。これがソーシャルメディア時代の若者の文化消費の形なのかもしれない。

2010年5月26日水曜日

【ホンヨミ!】ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る【戸高】

梅森直之編著『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』

 「想像の共同体」という言葉を一度は耳にしたことがあるだろう。この言葉の創造者、ベネディクト・アンダーソンが2005年に早稲田大学で行った講演の内容がおさめられている一冊。

 「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」これはアンダーソンが述べた有名な言葉だ。
 ここで当たり前の様に「国民」という言葉が使われているがそもそも「国民」とはなんなのか?「国」とはなんなのか。ここから考えねばならない。
 ここは我々が考えやすい「日本人」という「日本国民」を考えてみよう。日本人とは何なのかということを考える際に、大きく分けて3つの考え方ができるだろう。

1日本人とは礼儀正しく和を重んじる=文化的規定
2日本人とは日本国籍をもつ=法律的規定
3日本人とは日本史の教科書に書かれてきた人である=歴史的規定

 これらは全て「日本人」という概念がありきで述べられている。いわば日本人という要素を、決定的特質として還元されたものと見なすことで議論が行われている。これを本質主義と言う。
 しかしこの本質主義は先に、「日本人」という決定的特質を定めてしまっているので、ここで思考停止になってしまう。つまりはこれ以上の思考を止め、白旗を揚げている状態でもあるのだ。
 実際にこの3つの考え方も、考えてみるとどこかおかしい。
 文化的規定はそもそも模範的な日本人の存在ありきで進めている。ではその日本人ってなんやねんって話になるのでアウト。
 歴史的規定は縄文時代とかに列島にすんでた人は日本人なのか。彼らに何人ですか?と聞いても何人かわからない。また逆に台湾や朝鮮半島を占有していたことがあったが、彼らは日本人なのか?
 法律的規定は日本国パスポートがもらえる人=日本人。ならば帰化した外国人も含まれる。ならば彼らを日本人と認めることができるか?ここで文化的な規定に縛られることにもなる。
 外国人が日本国籍をもったからと言って安易に日本人とは認められないよね?せめて日本語は喋れないと・・・と言った様に文化的な要素がここでまた関わってくる。

 ではアンダーソンはどのように考えたのか。アンダーソンは日本人を作られる何かとして捉えようとした=構築主義。日本人が先にいるのではなくて、日本人は何かによって作られている。そんな考え方だ。
 
 そこでアンダーソンが想像の共同体を成り立たせる2つの要素として用意したのがこれらだ。
共同体というものを成り立たせる感覚

1同じ時間を生きている感覚(同時性)
2同じ境界の内部に属している感覚(限定性)

 時間的な同時性を共有し、共同体になるには境界が必要になる。アンダーソンはその境界を作り出すものを「言葉」にもとめ、出版資本主義という言葉で説明した。ここでも想像しやすい日本語を例に考えてみる。
 日本語=日本人が話す言葉。しかしその中にも方言があり、職業、年齢層、性別、階層によっても差が出る。標準語といってもそれはアナウンサー等のみが喋る俗語である。
 では標準語が日常生活の話し言葉でないとすれば、なんなのか。出版語である。これは出版業界が確立する時期に書き言葉として登場した新しい言葉である。
 出版が産業として成り立つ為には市場を十分に拡大させる必要がある。方言で書かれた文章じゃ、特定の地域の人にはわかりやすくても市場としては狭くなってしまう。(例えば東北弁で書かれた新聞や小説が、東北の人々に理解されても、東京の人が読むとちんぷんかんぷんになってしまい、限定的な市場しか獲得することができない。)
 この統一的な市場の必要性に応じて作り上げたものが「国語」である。そして、その「国語」を使用することによって、その国の人は自分がその国に属していると意識するのだ。
 日本人ならば日本語を使うことで日本人であると理解することができる。例をとってみよう。
 新聞は、北海道から沖縄まで同じものとして、見知らぬ大勢の人間が新聞を読んでいるということを無意識のうちに知る。この意味で毎朝新聞を読むという行為は北海道から沖縄まで列島に暮らす人々の間につながりを生み出す儀式なのである。
 新聞を読むたびに同じ言葉の新聞を読んでいる無数の人々の存在を認知し、その共同体への帰属確認を行っていると言っても過言ではないのだ。
 「出版資本主義」を通じて固定化された言葉は、「均質で空虚な時間(◯月×日△時□分という、時計で計られる時間は無意識のうちで見知らぬ人同士の間に同じ時間を生きるという繋がりを作り出している。)」による開かれた人間のつながりを境界によって囲い込む。
 この開放と閉止の同時進行が国民という想像体を可能にするメカニズムである、とアンダーソンは主張している。

 この想像の共同体は国家や文化レベルのみで語られるものではないだろう。
 ウェブの世界、特にユーザー同士の交流のあるサイト(SNSしかり、掲示板しかり)ではそのサイトでの「想像の共同体」が構成されている。

1同じ時間を生きている感覚(同時性)
2同じ境界の内部に属している感覚(限定性)

 先ほども記述したが、これが「想像の共同体」を形成する2つの要素だ。
 ソーシャルメディアによって「リアルタイム」ということが強調されるようになっているが、より多くの人と同じ時間を生きている感覚を得ることができる様になった。
 しかも同期的なメディアは数種類に別れる。ニコニコ動画的ないつでも祭の「擬似同期」的メディア、セカンドライフ的なあとの祭状態の「真性同期」的メディア、twitterのように自分が好きな時に同期をおこすことができる「選択同期」的メディア。
 そして「国」という境界はほぼ意識されることはなくなり、そのサイト内での内輪性ということが逆によりいっそう強く意識されることになった(2ちゃんねるに見られる書き込みや、twitterの〜なうなどもそうだろう)。
 この2つの条件を満たすソーシャルメディアのおかげで、全ての人間がフラットな状態で、人種も国籍も関係なく、「想像の共同体」を築く時代に今、なっているのではないか。

2010年5月25日火曜日

【ホンヨミ!】著作権の世紀【戸高】

福井健策著『著作権の世紀』

 梅沢和木という芸術家をご存知だろうか? 

 今回、この『著作権の世紀』を読んで、私は最も第三章の「多次的創作の時代」に関心を持った。
 昨今、ニコニコ動画やYouTubeなどで、マッシュアップ作品が溢れる様になってきている。
 このマッシュアップ作品(MAD)作品については、削除申請を頻繁に行う権利者もいれば、角川のように、その作品に「愛」があるのかどうかという基準を示し、公認マークを与えながら広告利用をすることで、その収益をプロシューマーと分かち合うという企業もありさまざまだ。

 このように1億総クリエイター時代が到来し、プロとアマの境目が曖昧な中で、コラージュなどを活用し、マッシュアップ作品で注目を集めているのが先ほど述べた梅沢和木だ。



 彼の作品はアニメ絵を切り取り、様々に組み合わせているものが多い。著作権的には限りなく黒に近いグレーなのではないかと思う。
 こういったマッシュアップや、日本の同人的文化はクリエイターを生み出すゆりかごであるため、また規模的には小さい、権利者から「おもしろい」と黙認されているのが現状です。
 しかし、今では同人活動の場が、紙だけではなく、先述のニコニコ動画等の動画共有サイトや、pixivなどのイラストコミュニケーションサイト等、デジタルの部分でも行われるようになり、「規模的には小さい」ということはできなくなってきた。(実際、梅沢氏の作品にも高い評価がなされる様になっています)
 
 だからこそ「デジタルの新たな著作権を考えるべきだ。」となっているのでしょう。
 僕的には角川のような、「愛」という曖昧な判断基準ではあるが、それが含まれていればそのマッシュアップ作品の公開を認め、商用利用することで、権利者と制作者がwin-winな関係を築ける様になればいいのではないのか、と思います。
 そもそも同人文化が、権利者から「おもしろい」と黙認されていたのも、そこには「愛」がある故ではないでしょうか。そうして黙認されていた同人文化から数多くのプロクリエイターが出てきたのも事実です。
 1億総クリエイター時代の今、権利者達は著作権と叫ぶのではなく、玉石混淆のコンテンツの波の中で、玉が石の中で埋もれてしまわない様、コンテンツを扱うプラットフォームを整理する、援助するといった姿勢の方が重要なのではないでしょうか。
 そしてさらなる日本の同人文化、サブカルの発展に繋げて行くべきだと思います。

2010年5月24日月曜日

【ホンヨミ!】アーキテクチャの生態系【戸高】

濱野智史著『アーキテクチャの生態系』

 読むの二回目です。去年の論文前と後で読むと受ける印象がけっこう違いました。

 最近ゼミで「アーキテクチャ」という言葉をよく使う様になった印象があると外からも聞けば、自分自身も思います。以前のサブゼミの時も話題となったので、簡単にまとめておきたいと思います。

 まず、アーキテクチャという言葉を使い始めたのはかのローレンス・レッシグでした。彼は著書、『CODE』の中で、人間の行動を制御するものは4つあると言いました。

1規範
2法律
3経済市場
4アーキテクチャ

 アーキテクチャに関係のない他のも含め、飲酒運転の例を用いて説明しますと、

1規範
 飲酒運転は悪だ!のんだらのるな!のるならのむな!
 このような、一種の飲酒運転撲滅キャンペーン等で、人間の心理に「やっべ飲酒運転やめとこー」と訴えかけるのが規範です。倫理的なものがそうですね。

2法律
 実際に飲酒運転は道路交通法で取り締まられています。法律で悪いと決まってるから飲酒運転はできない。これが法による規制です。

3経済市場
 飲酒運転をすると罰金がとられます。飲酒運転の罰金は市場を通じたものやサービスの売買にはあたらないので、厳密には違うとも言えます。しかし、経済感覚に(罰金ってもったいない!)訴えかけることができるので市場による規制といえます。

4アーキテクチャ
 これは自動車自体に、「アルコールを感知するとエンジンがかからないとする」といったようにすることです。つまりは、絶対的に飲酒運転をなくすことができる方法です。
 前の3つは価値観やルールと言うものを内面化する作業が絶対的に必要不可欠です。
 しかし、この4つ目のアーキテクチャは被規制者がどのような価値観の持ち主であっても、技術的、物理的に行動を制御してしまうという手法です。

 しかしこれだけではアーキテクチャに対する規制は不十分で、もう1つ意識せねばならないことがあります。
 それは、その規制者の存在を気付かせることなく、被規制者が「無意識」のうちに規制を働きかけることが可能である、ということです。
 例えばファーストフード店の座席を意図的に固くしておくことによって、店の回転率をあげるといったことがこれにあてはまります。

 筆者はこのような誰にも気付かれず、何かしらの方法で人の行動を規制することが可能なアーキテクチャを用いることによって、なんらかの社会秩序や社会設計を生み出すことができるのではないかと述べています。つまりは「規制」という「権力」的側面に注目していない所に特徴があるでしょう。
 (人間はどうも「規制」と「権力」というものを結びつけ、マイナスなイメージ、そしてそれに抗おうとする性質があります。)

 アーキテクチャに関する説明はこのくらいにしておいて、以下雑感を述べて行きます。
 よく日本がガラパゴス化しているといったように揶揄されますが、それはweb空間においても言えることでした。
 たとえば2ちゃんねるという巨大な匿名掲示板。2ちゃんねるではその匿名性が故、個々が自由に表現が可能になったとはいえ、否定的な見解を述べる知識人も後を絶ちません。
 その1人がかの梅田望夫氏です。彼は2ちゃんねるはblogとは違いweb2.0的なものではないと否定しています。
 なぜかというと、2ちゃんねるは内輪集団の中に個を埋没させる=総表現社会の中で個をエンパワーメントすることにはならない。と言うのが彼の主張です。
 また彼は、「もっと個をほめろ!日本のウェブ社会は個をけなすばかりでほめなさすぎる!ほめることでエンパワーメントするんだ!」といったことも一言っています。
 2ちゃんねるはこの図式に入らない。戯言とルサンチマンによる足の引っ張り合いでしかない。個を褒めることによって「個のブランド化は進む」のです。
 「個のブランド化」とは、例えばネットオークションなどで、出品者は商品をできるだけ高く売りたいので、個人としての評判を高めたいと思い、詳細な情報やアフターケアなどをしようとします。
 そうした丁寧な出品者に対して、落札者側が好評価をつけることによって、その人の価値が高まって行き、果てにはブランドとして成立するといったようなことです。
 
 この「個のブランド化」はソーシャルメディアを考えて行く際には重要になってくるのではないでしょうか。
 twitterの似たような機能をもつウェブサービスの1つとして、mixiボイスがあります。このmixiボイスは、twitterユーザーからすると、「またmixiがまねごとを始めたのか」と言った様に否定的な見解も見られるのですが、1つ独特な機能を持っています。
 それは「イイネ!」の機能です。まぁtwitterの☆をつける機能(ふぁぼる)と一緒やんけと言ってしまえばしまいなんですが、twitterのつぶやきは、「ふぁぼったー」等を通さないと、誰が自分のつぶやきをふぁぼったのかが可視化されないというのが1つの難点です(もちろんtwitterサイト内からでも見ることはできますがめんどくさい。)。
 しかし、mixiボイスの「イイネ!」はそのつぶやきに誰が「イイネ!」をしたのかが見れる様になっているので、その場で「あ、このつぶやきが人に認められたんだ。」ということがわかる様になっています。
 実際、twitter、mixiボイス両方を利用している人の言葉の中に、「すごく些細なことでもmixiボイスのイイネ!に救われているような部分はある。」といったこともありました。
 
 昨年の論文でUGCサイト設計論を取り扱ったわけですが、「総表現社会」においては表現をするからこそ、何らかの形で評価をされる時代になっているわけです。
 その評価が肯定的なものか、否定的なものかはわかりませんが、ユーザーにとって肯定的評価は上手く可視化された方がいい影響を与えるでしょう。
 その去年の論文でも「社会的評価を与える/金銭的評価を与える」といった2つの軸で、自分の表現に対する他者からの評価というものに焦点を当てた。今考えてみると「UGCサイト」というものに限定して考えると、金銭的評価はいらないのではないかと思う。
 例えばニコニコ動画では、ニコニ広告といって、自分の動画が他者により宣伝されると、動画のサムネイルが銀色、金色とバージョンアップしていき、自分の動画が際 立つようになってくる。このように自分の動画が数字だけでなく、色で評価されることが可視化されることが、 prosumerに対してのインセンティブになるのだ。
 ニコニコ動画がこのように社会的評価だけを導入し、金銭的評価を導入しなかった理由を、ひろゆき氏は以下の様に述べている。

「作品の良さに対して、見返りがない状態でお金を払う人がいないと、本当の良さを評価 する軸にならないと思う。制作者に金銭的なメリットが出ると、エロ動画や著作権侵害作 品を上げるとかいう方法でお金を稼ごうとする人が出るという問題もある。」

 本著の中でも書いていたことだが、そもそもコンテンツを評価する軸と言うものは「客観的評価軸」と「主観的評価軸」の2種類に別れる。
 「客観的評価軸」については、wikipediaなどの百科事典などがあげられる。これは情報に信頼性という客観性が必要不可欠であり、主観的すぎるものはすぐに書き換えられてしまったりする。
 一方、「主観的評価軸」いついてはニコニコ動画にあげられる動画や音楽など、いわゆる趣味として消費されるコンテンツがそうなる。
 しかし、ニコニコ動画内では「客観的評価軸」ができてしまっているのではないか。
 ニコニ広告ができる前も、そのコメントの数や内容でその動画に対する評価と言うものは見て取ることが可能だった。そのコメントがニコニコ動画の作品を評価する客観的な軸となっていたのだ。
 しかし、この客観性はニコニコ動画という場においてのみ通用する「限定客観性」である。他の場所でも通用するものではない。しかし、内輪の中でのみ通用するからこそ、その「限定客観性」は時には「祭り」などに派生し、様々なコミュニケーション形態を生むのではなかろうか。

 以上の様に、UGCサイトを設計するには、そのサイトのアーキテクチャとして、表現を評価する(しかも肯定的な)機能を盛り込む方が、ユーザーはもっと表現を行おうとするのでいいのではないか。
 しかもその評価の可視化が内輪性をエンパワーメントし、よりそのサイトを盛り上げる効果もあるのかもしれない。
 内輪性は否定されることがしばしばあるが、日本のUGCサイトなりソーシャルメディアが内輪性をもったままガラパゴス的に成長するのを私はそれほど悪いことだとは思わない。
 日本には日本の社会性などを反映し、アメリカ主導で進化してきたインターネットの世界とはまた異なった独自の進化を遂げてきました。そういったアメリカ流のインターネットを本流と見なすのではなく、日本流のインターネットと別個で考えればいいだけではないでしょうか。
 またそういった日本的なインターネットが海外のソーシャルメディアに機能として組み込まれてきているのも事実なので、(つながりというものが強調されるようになってきた)これから社会の中で、世界の中でどのように日本のインターネットが進化して行くのかを見て行けばいいだけなのだと思います。

2010年5月22日土曜日

【0521ゼミの感想】ひさしぶりの設計者側【戸高】

 4年生になって、去年1年やっていたゼミの設計から離れる日々が続いていました。正直どこか手持ち無沙汰な所がありました。
 しかし、突然の出来事でしたが、久しぶりに「ワークショップ」というゼミ設計の立場の機会をいただき、いざ設計をしてみると果てしない疲れはもちろん、やっぱり設計側の立場の方が楽しいとう思いを実感しました。

【NCネットワーク中立性】
 課金をユーザーに対してすべきかどうか。これを表現の自由などの観点から考えると答えが出ない状態でした。
 ネットワークを多く使ってるユーザーには多く課金するべき。しかし、ユーザーに対する課金を行えば、UGCサイトにコンテンツが集まってこなくなり、そのUGCサイトの運営もままならなくなり、果ては日本のコンテンツ立国まで危ぶまれる様になる。
 この2項対立の考えからなかなか自分の頭を柔らかくすることができなかったのですが、金先生の「大盛りを食べる人がたくさんお金をはらってるんだから、多く利用している人が多くお金を払うのは当たり前なのではないか。」という言葉を聞いて変に納得してしまいました。
 ただ、インターネットは「自立、分散、協調」の中で育ってきた、言わば下手に規制をいれないような文化があるので、なかなか難しい所があるとは思いますが。


【ワークショップ】
 金光さんが軽く触れていたのでまず雰囲気の面について。

 岸本、小宮、戸高は成功、不成功はおいておいて、一応就職活動というものを過ごしてきました。そのなかでGDを何度か経験していたのですがそうすると人事の目と言うものを気にする様になるんですね。
 今回のWSを写真を撮りつつ各班を回ってみていて気付きました。GDって1チーム6人くらいで行うんですが、4人の発言内容ですら明確に追うことは難しいのに、GDのレベルだとほぼ誰が何を言った、どんなクオリティの発言をしたかを追いきるのはほぼ不可能です。

 じゃどこを見てるのかというと、やっぱりその人がどんな雰囲気を出しているのかにかかってくるのだと思います。その雰囲気にも大別すると2つあるのではないかと。

1すごく楽しそうで一緒に働いたら楽しく仕事ができるんだなタイプ
2すごく真剣ではりのある仕事ができそうだなタイプ

 このどっちかのタイプに、自分の発言で他者を巻き込みながら、その雰囲気形成をできるか。ここが鍵になってくるんだと思います。

 次に、みなさん今回のWSはいかがだったでしょうか。楽しかった。やりやすかった。またやりたい。そう思えたみなさんは次もそういう雰囲気を出せる様に努めていただければ幸いです。
 しかし、それは仲間に恵まれていたから。ということもできます。WSやGDは周りの仲間によって大きく方向性が左右されてきます。
 また、ブレストの手法等も全然知らない学生も多くいるので、自分がいつも慣れているからと言って普段のやり方通り進めようとするとひんしゅくを買ったりすることもあります。
 この人たちとならどう進めて行くべきかといったことも念頭に置いて行くべきでしょう。

 各班のプレゼンについてはどこの班も論理だったプレゼンでよかったとは思います。しっかりとプロダクトまで完成させ、寸劇も作り上げ共感を持たせながら物語としてプレゼンを行うことができていた班もちらほらあり、見ている側も勉強になりました。

 あとはビジネスライクの面をどうつめていくのかといったことを金先生もおっしゃっていましたが、文房具の弱みはどこにあるのか。それをどう補って行くのか。みたいなことを言えていれば、より説得力のあるプレゼンになっていたのかもしれません。

 何はともあれ設計側も楽しかったです。ありがとうございました。

2010年5月19日水曜日

【ホンヨミ!】メディア・ビオトープ【戸高】

水越伸著『メディア・ビオトープ、メディアの生態系をデザインする』

 ビオトープとはなんなのか?ここから入る必要があるだろう。
 ビオトープとは簡単にいうと、生物の棲息に適した小さな場所である。失われたり壊されたりした豊かな自然を取り戻す為に、人々は裏庭の茂みや校庭の池、近所の境内、ベランダの植木鉢や水槽などといった生き物の小さなすみかに目を付けた。そうした小さな点のような空間にいろいろな生物が済める様に工夫をし、点と点を互いに結びつけ、網の目状に育み、ゆっくりと時間をかけて地域の生物性大系を再生する。
 こういった試みがビオトープ運動、日本では里山保全運動等もビオトープの一環だ。

 ではそのビオトープにメディアという言葉にメディアがつくとどうなるのか。これを知るには現代のメディアがどのように発展してきたのかを理解せねばならない。
 マスメディアは国と結びつきながらマスメディア以外が育ちにくい環境を作り上げてきた。(新聞では、昔700以上の新聞局があったが現在は100程度しかないこと。テレビも地方局の力は弱く、キー局が牛耳っていること等。)
 こういったマスメディアが大きな森を作り上げ、土壌を覆ってしまったため、地域等に根ざした小さなメディアが芽を出しにくい環境を作ってしまったのだ。
 
 こういったメディアの問題はそれを支えるコミュニティの問題、つまりは私たちの問題でもあると筆者は述べる。私たちがいかにメディア表現を自由に行うか、コミュニケーションを自律的に行うことができるかという権利に関わっている問題なのだ。ではなぜそのような問題が生じているのか。
 まず1つに送り手と受けての過剰な乖離が進行し、コミュニケーション不全が生じていることがあげられる。
 マスコミュニケーションはインタラクティブであるべきだ、というのが筆者の主張だ。コミュニケーションというものは受けるだけでなく、発信もするのがそもそもの基本。メディアがコミュニティを生み出し育てもするが、一方でコミュニティとそこに生きる人々がメディアを支え、批判し、発展させると言う機能もあるはずだ。
 次にメディアに表彰されるコミュニティのイメージとメディアを支える現実のコミュニティの実態が著しく切り離されている。
 例えば「いい街」金沢。これは東京発の国家的メディアに表象されたイメージ複合体である。さらにこの表象はそれが映し出すコミュニティに生きる人々をも枠づける。金沢はいい。だからよき行動を振る舞おうと金沢市民はするのだ、と筆者は述べている。
 こうしたことは都市や地域だけでおこることではない。また、メディアが客観的報道を完璧にできるわけではない。その目の前にある対象を記号化し象徴し、変換する。
 問題は現代社会の中ではメディアがコミュニティからはぎとられ、中央集権的権力として情報をまき散らしていることが様々な問題をもたらしているということにあるのだ。

 こんな背景があるからこそ、メディア・ビオトープ的実践が必要とされているのだ。ビオトープが「生物の棲息に適した小さな場所」というものだったように、メディア・ビオトープは「小さなメディア」、言い換えるならば「マスメディアではないメディア」が織りなす環境だということができる。
 マスメディアが作ってしまったこりかたまった環境の中で生きてきた私たちが、メディアに対して批判的になり、一度メディアの枠組みを再編し、誰もが情報を発信し、それをなるべく多くの人に受容してもらいそれを擬似体験してもらう動き。これがメディア・ビオトープということができるのではないか。

 メディア・ビオトープの特徴としては主に4つある。

1小さなメディアに着目する
フリーペーパー、同人誌、地域SNS、ケーブルテレビ、コミュニティFMなど自分達がハンドリングできる規模のメディアを機転としてメディアの生態系をとらえ、組み替えて行く。
2小さなメディアがネットワーク化して展開して行くことを戦略に組み込んでいる
自閉するのではなく、多様性と広がりをもったコミュニティをつくるならば、小さな規模はそのままに、他のメディアとの間に回廊をめぐらせ、ウェブ状のメディアビオトープをつくらねばならない。互いに関わりのなかった領域を異種混合的に結びつければ小さなメディアの生態系はかんたんにダメになったリハしない。しかもその地域はバーチャルのコミュニティでもむしろ大歓迎。
3国家的マスメディア、自閉的メディアのどちらでもない、新たなメディアの様相を提示してくれるのではないか?
4メディアビオトープを生み出す為の道具や素材の必要性
コミュニティFMや地域SNSを作る決まりきった体型などはないが、なんらかの一般論は存在するはず。そういった実践の面もこれからのメディア論は考えて行かねばならない。

 このような、メディア・ビオトープ的な活動を行う上で、必要な要素は3つある。

1メディアリテラシー
2メディア実践
3メディア遊び

 メディアリテラシーとメディア実践は2つで1つであるような気もする。まずリテラシーという言葉は、ただ文字を読むことができる、書くことができるという意味だけではなく、その読み書きの能力を用いて、小説等を読み楽しむことができる、批評に対して自分の意見を持つことができるといった所までを含む。
 これをメディアにも応用すると、常に(従来の)メディアに対して批判的になり、自分也の意見を持つ必要があるということになる。
 そしてその能力を活かして、自分で情報を発信して行く。これがメディア実践にあたるのではないか。
 そういった発信をする際に「遊び」の感覚を忘れてもならない。ただ単なるエンターテイメントではない。人間とメディアの関係性を硬直したものでなく、組み替えていく活動。日常的な物事のあり方を当たり前と考えるのではなく、その意味合いをずらしたり、逆転したり、転化することで笑いを呼び起こし、魂を揺さぶる営みのことだ。
 このメディア遊びは既存のメディアと交流している時ももちろん生まれるが、新たなメディアが出てきた時に最も高まるものだ。今までのメディアとの関係を新たなメディアによっていかに組み替えて行くことができるかということを、リアルに体験することができるからだろう。
 
 たぶんソーシャルメディアというものはまさしくメディア・ビオトープの形成に役立つメディアなのだろう。
 誰でも情報発信を可能にし、さらにそれは多くの人との点と点の結びつきで面となって行く。
 実際twitterの登場によって、メディアの枠組みが少しずつ変わってきてるのではないだろうか。テレビとtwitter。広告とtwitter。さらには新聞会社もtwitterに手を出し、今まで一方向的なコミュニケーションしかとっていなかったマスメディアが、ソーシャルメディアに頼ることで双方向的コミュニケーションをとろうとしている。
 また、各地域の小さなお店もアカウントを作り、リアルタイム性を活かした広報活動を行っている。
 これをtwitter上だけで終わらすのではなく、地域活性化に問題意識をもっている人々が集まり、さらに自分達が地域の学校や広報機関と関わりを持ち、twitterという点から他の点とつながって行き、面になっていく努力を行えば、その地域内でのメディア・ビオトープが他の地域に伝染して行き、日本全体が東京集中型メディア体制から脱却し、フラットで皆が楽しめるメディア界の再編につながるのではないか。