服部桂著『メディアの予言者』
前回の書評でも書かせていただいたマクルーハン先生に関する本です。
前回のは入門編でイラストも多数挿入していて「マクルーハンを知るきっかけ」としての良書でしたが、今回のはよりマクルーハン論を深めた感じの書です。
「メディアはメッセージである」と彼は述べているが、この言葉をわかりやすく言い換えると、「メディアこそがメッセージである」となるのではなかろうか。
たとえば、ある物事に関する知識をインターネットでググって仕入れたのか、テレビで見たのか、本で読んだのか、実際にそのことに関する講演会に参加して直で聞いたのか。
これらの違いで受ける印象は全く持って違うと思います。これぞ、「メディアこそがメッセージである」ということです。
つまりは、そのメディアがもつ特性によって受け手が感じる印象は違う。だからこそ、そのメディアがもつ特性に注意して、我々は生活して行くべきではないのか、またそのメディアの特性を把握すべきではないのか。というのがマクルーハンの主張です。
ではメディアが伝えるメッセージである「コンテンツ」とはいったいなんなのか。確かにコンテンツもメッセージではあるのだが、その前景と背景にこそ注意すべきだとマクルーハンは述べています。
これはゲシュタルト哲学的考え方なので詳しいことは省きますが、つまり、コンテンツ(前景)を成立させているのはメディア(背景)なので、そのメディアにこそ注目すべきだということです。
ここでのメッセージはコンテンツのような静的な実体ではなくそのメディアが社会や文化に対して与える「パターンの変化等の効果」を示します。
例えば、マクルーハンは人間の身体を拡張したものを「メディア」といっているので、鉄道の例で考えてみよう。
鉄道は人間の機能のスケールを加速拡大し、その結果まったく新しい種類の都市や労働や余暇を生み出した。つまり、人間の生活パターンの変化がここで起きていることを読み取ることができる。
メディアは、我々が生まれた頃から慣れ親しんでいる場合だと無意識に偏在していることになるので、そういったメディアに注意を向けることを人はしなくなります。
そしてコンテンツにばかり気を取られていると、「壁のない牢獄」につながれ、その中で溺れてしまい、メディアの中で夢遊病者のように暮らすことになると言っています。
mixi疲れや、twitter疲れといった言葉がありますが、まさしくこういったこともここから読み取ることができることではないのでしょうか。
では次に、マクルーハンにとっての「コンテンツ」とはなんなのか。ここでは「あるメディアにとっての他のメディア」だと述べられています。
話し言葉は書き言葉の、書き言葉は印刷された言葉の、印刷された言葉は電信の、といったように食物連鎖的関係になる。
音声的言語ならば、電信は電話の、電話はラジオのラジオはテレビのと言った様に発展し、最終的にインターネットとなるのではないでしょうか。
話し言葉のコンテンツは、実際の思考のプロセスと言う非言語的なものであり、それが包含するメディアがない、原型としてのメディアと考えられる。
そういう意味でコンテンツとは人間の思考そのものであり、メディアを利用する利用者こそがコンテンツであるとマクルーハンは言っています。
「人間の拡張であるメディアの連鎖はメディアをメディアたらしめている人間の意識と意識の対象をむすぶ長い道。その道の最初にあるのは自らをコンテンツとする自己原級的な意識そのものであり、そこでは人間の意識に特有なコンテンツが生まれてくる。」
以前から僕は「人生のコンテンツ化」という言葉をよく使っていますが、上記の文章にその一端をみることができるのではないでしょうか。
人間の意識に特有なコンテンツが生まれてくる。この人間の意識というものは周囲の環境によって変化させられるものであると僕は考えるので、様々なメディアに溢れる今だからこそ、適したコンテンツがあるのではないかと思います。
では人の意識に影響を与えるメディアとは?そのメディアが与える影響とはどのようなものなのか?そういったことをもう少し勉強して行きたいです。
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