2010年11月12日金曜日

【ホンヨミ!1112②】JUSTICE【高橋】

『JUSTICE~What's the Right Thing To Do?』 Michael J. Sandel(著)

夜な夜なちょびちょび読み進めてようやく読み終えました。
Podcastの動画(無料)も一緒にみるとより理解が深まって面白かったです。

①Affirmative Action
ここで扱われたのは大学入学に関して。民族多様性促進を優先すべきか、それとも「出来る」順で順当に入学者を認めるべきか。それぞれに側に立ってみて考えると、どちらの言い分も理解できるが、そのバランスをどこで決めるかが本当い難しいと思った。逆差別の問題もあるが、現状のままでいいわけでもない。賛否両論のトピックを多く扱う本著のなかでも特に考えさせられた章の一つであった。結局は見本となるべき大学という教育機関の役割上、民族多様性をとったわけだが、逆差別的視点でみたら自分より点数が低いのに社会的minorityということで選ばれて自分は落ちるというのは理不尽だと感じてしまうだろう。どちらにしたって当人たちに一切の問題があるのではない。社会そのものの問題であり、生まれてくるとき自分の人種やstatusを選ぶことが出来ないだけに一筋縄でいかない難しいトピックだと感じた。

②The Runaway Trolley
トロッコを例に、人の命の重さについて議論している。より多くの命を助けるために一人の命を犠牲にすることは本当に「正しい」ことなのか?命の重さは数の問題で完結できるものなのか?例えば5人の作業員の命を救うために路線変更して1人の命を犠牲にするとする。理由はより多くの命を救うためにやむなくやったとなるだろう。ならば今度は自分が運転手ではなくてトロッコが走るのを橋の上から見る傍観者の場合。5人の作業員が轢かれそうな状況で、隣の身体の大きな男性を付き落とせばトロッコを止めることができる場合、自分は隣の人一人の命を犠牲にして5人の命を救うだろうか。ここでは多くの人はそんなことはせず、ただ5人が轢かれてしまうのを張り裂けそうな思いでみているしかないのだろう。しかし、もし一つ目のケースの理由が命の数を天秤にかけて選らんだというならば2つ目のケースで矛盾してしまうことになる。当たり前に思っていた自分の価値観に風穴をあけられたような気分になって深く考えてしまったことだった。自分ならどうするか…。その理由までつきつめると答えを出せずにいる。偽善を口にするのは簡単だが、「正当」な根拠づけは難しい。

③Pregnancy for Pay
妊娠することができない夫婦が代理出産を頼んでのケース。一つのビジネスとして代理出産する女性と代金を支払う夫婦を取り持つ業者がある。そこに自主的に応募して代理出産をした女性が、実際に子どもを産んだあとになって子どもを引き取りたいと申し出て引き渡さないことから夫婦が訴訟を起こした問題。契約金は支払われているのにも関わらず母としての情から子どもを手放せずにいる女性。ここで触れられていた部分で印象に残ったのが、「自主的」に応募したというとこに疑問を投げかけている箇所。契約金欲しさに社会的に恵まれていない貧困層の人が生きていくために応募したという状況は本当に「自主的」だといえるのか。ある意味では社会に強要された、残された道でしかないのではないかという視点。「自主性」の定義を安易に考えてしまっていたのではないかと考えさせられた。社会からある種「強要」される「自主性」。社会的minorityに実際にならないといくら正論を吐いてもわからない内面の問題で、一見代理出産した女性が全面的に悪いと思いがちだが、その経緯や背景についてもじっくりと考える必要があると思った。それが社会全体をより良くしていくものに繋がるはずなのだから。

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