まず、ライトノベルと純文学を分けるものは、現実の描かれ方だ。純文学には私小説と呼ばれる ものが多く、「私」の世界すなわち現実を書いている。一方ライトノベルでは、現実は半分しか描かれていない。宇宙人・未来人・超能力者が出てきたり地球の 運命がひとりの少女の情緒に委ねられてたりとか、虚構が虚構として書かれている。大塚英志の云うところの「まんが・アニメ的リアリズム」が読者の中で共有 され、登場する人物や事象についてもその点において共通見解が取られている。
伊藤剛は「テヅカ・イズ・デッド」の中で、「キャラクター」と「キャラ」を分けた。東浩紀が云うところの「物語」/「データベース」の分け方に該当し、キャラクターはあくまで物語の進行上で登場する人物、キャラは物語の進行上不要の設定を無数に持ち、それ
自体の世界(つまりデータベース)を形成する。
ライトノベルの登場人物は、ここでいうキャラに該当すると思う。
キャラにはある種の同一性があり、物語の中で何が起ころうが、本質的には変化しない。たとえ死のうが、二次創作ではさくっと生き返るように。
言い換えると、キャラにはある同一性を持った核があり、二次創作はその核をベースとしたパラレルワールドを各自が展開し、パラレルワールドで起こりうる可能世界要素が蓄積され、物語の中だけのキャラクターを越えた「キャラ」のデータベースが形成されるのだ。
ライトノベル的消費、つまりはキャラ消費とは、様々な人達が作り上げたパラレルワールドを知り尽くし、そのキャラに関する情報を捉え尽くしたい、より自分の頭の中のキャラデータベースを補完してやりたい、という欲望によるものなのだ。
これって、少しイデア論にも似ているような気がします。
では、この核はどこに起因しているのか。わたしは物語だと考える。「物語の中で何が起ころうが、核は変化しない」という前述と矛盾しているようだが。
東浩紀は、上記のようなデータベース消費の時代には、キャラは物語から独立し、物語は必要が無くなると云う。それに対し宇野常寛は、二次創作はむしろ一次創作の物語を承認し、強化するもので、物語からは逃れられるものではないと云う。
「大きな物語」つまり一冊の本の中に、無数の「小さな物語」の要素が詰まっている。この中で、読者の支持のより厚いものがキャラの核を形成する基となるの ではないだろうかと思う。逆に読者にとって瑣末に扱われる要素の場合、前述したように、たとえば「あるキャラクターが死ぬ」展開であっても、キャラは死な ないのだ。
「読者の支持のより厚い要素」は、ネットの登場により共有がぐっと容易になったものの、この形成のされ方はもう少し考えてから言いたい。
この核となるものを読み解き、公に展開したものがメディアミックスなのではないかと思う。そうすると、このキャラ消費の公式を読み解くことが出来ると、メディアミックス展開の一助になるのではないだろうか。
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