2010年9月23日木曜日

インドに行ってきました〜その2〜【斎藤】

インド関係の話題を連続して書かせて貰います。

今回はインドを旅していると必ず出会う物乞いの人々に関して振り返ってみたいと思います。
僕が最初に物乞い(このように表現するのは適切かどうか分かりませんが)に出会ったのは、到着してから二日目の朝、ホテルを出てすぐの所でした。

まだ小さい子供を抱いているお母さんが僕の肩を引っ張って、すぐそこの店で子供の為にご飯を買ってくれと言ってきました。そういった体験が初めてだったので僕は当惑し、その願いを断る事ができず店まで一緒に行き食料を買ってあげました。すると、そのすぐあとに別の人に肩を叩かれたので振り返ると両腕の肘から先が無い男が金をくれと行ってきました。おそらく、僕がその母子に物を買い与えたのを見ていたのでしょう。しきりにカーアクシデントにあって働くことができないといってきます。全員に施しを与えているとキリがないとおもったので、僕は金はあげられないと言い駅に向かうためその場を去ろうとしました。しかし、10分たってもいっこうにその男は諦めず、ずっと僕について来ます。根負けした僕は駅までの道を教えてくれとその男に訪ねて、そのお礼に10ルピー程をあげました。するとそれまで、施しを求めていたのが嘘のように、礼を言うこともなく男はその場を去って行きました。

ちょっと、街に出た短時間の間にこれまでには出会った事のない人々。つまり、人から施しを受けなければ生きていけない人々に出くわしたことは僕にとって衝撃的でした。

今回インドを訪れた間、彼らとどのように接すれば良いのか。このことをよく考えました。もし、僕が今日お金をあげたとしても、明日も同じ場所に行って彼らにお金をあげることはできません。また、一人にあげたとしても、次にやってくる人、またその次にやってくる人にもあげ続けることも不可能です。
そう考えると、最初に母子と両腕の無い男に施しを与えたのは、自分がこれまでに見た事の無い目の前の現実をやり過ごす為でしかなかったように思えてしまいました。そういった中途半端な姿勢が嫌で、施しを求められてもNOと言うようになりました。

しかし、旅をして行くうちに自分はコーラを買ったりホテルに泊まるのにも十分な金を持っている上、目の前にいるおなかをすかせた子供に施しを与えない明確な理由もないのに何に対して意地を張っているのだろうかという自問自答がわいてきました。日本という国からふらっとやってきて、ちょっとインドを覗いただけで施しを与える事の善悪を考えるなどただの自己満足でしか無いのではないか、そう感じてきました。物乞いの彼らは、今日も明日も明後日も誰かに施しを求めて暮らして行く。それが良い悪いではなく、それが彼らの生き方なんだと思いました。そう考えると、今日の分しか施しを与える事はできないけれども、その分を与えて、目の前の子供がお腹一杯になる、それでいいのではないかと感じ始めました。もちろん、全員にあげる事はできないので自分のできる範囲を超えた分にに対してははっきりと断る事も大切ですが。

インドにはこういった物乞いの人々がたくさんいます。そして、インドという国はそういう人々を覆い隠すことなく、そういった人々が存在する事が当たり前であるがごとく、日常のなかに彼らを同居させています。駅のホームで座っている僕に対してひたすら物乞いをする人々がいると思えば、そのすぐ横で裕福そうな親子が楽しそうにわいわい話しているのです。外国人からでさえ施しを受けている自分の国の人間をよくもここまで無視できるものだな!とインド人、インド社会に対して怒りを感じたりもしましたが、それが良い悪いではなく、それがインドの姿なのだと改めて思います。

今回はインドに対して全く知識を持たずに行きました。もっと勉強していけばよかったと思う一方、無知故に様々な事に戸惑う事ができ、それがまた良かったのかなとも思います。
インドは一言では表すことができない、正直言ってよくわからない国でしたが、僕が見てきた断片的な姿をブログで書かせてもらいました。無責任な内容なので、皆さん自身が実際に行って自分の目でインドを見てみることをおすすめします。

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