こんにちは、夏休みも半分が過ぎ、成績が開示され(目も当てられないのは毎度の事。)、そろそろやり残したことをがーっとやってしまいたい衝動です。
わたしは日本が好きです。日本のことばが凄く好きです。海外経験が豊富な訳でも無ければ、二外語がぺらぺらな訳でも無いけれど、日本に生まれて良かったな、と熟思う。
純文学であれ、漫画であれ、そこで使われることばは、様々な背景を感じさせるもので、言霊という概念は、日本語にこそ宿るものではないかと思う。
言語は、物事を切り分けて、整頓し直す道具である。元の物事の捉え方は、メスの入れ方、並べ方で如何様にも変わってくる。
自分の言いたいモノは、どうすれば一番伝わるのだろうか。筆者が推敲を重ねた結果と考えると、手の中の書籍はまた違った見え方がするのではないか。
例えば、わたしは江國香織という作家が好きだ。イノセントな透明感が感じられる文体だと思う。彼女の文章には、形容詞や比喩表現が多い。昼ドラさながらのどろどろとした物語でも、彼女の描く文章は、なんだか子どもの話し方みたいなのだ。それが独特の気味のわるさを創り出してもいるのだけれど。
全然金ゼミらしくないブログアップになってしまいましたが、夏休みに免じてください。
どうしてこんなことを書こうと思い立ったかというと、先日千葉に行ったとき、ひとつのことばが頭に浮かんだからでした。
房総半島に遊びに行った帰りの車内、都内に入っていくと、それまでとは全く違った風景を見ました。いつもなら当たり前過ぎて見落としていたもの。オフィス街のビルの窓ひとつひとつから漏れる明かり。東京はキラキラしているなあ、と久しぶりに感じました。
インエイライサン、ということばをご存知でしょうか。
谷崎潤一郎の随筆、「陰翳礼賛」です。
薄暗がりの中では、ものの姿は朧げにしか見えない。が、だからこそ見る者の想像は掻き立てられ、本来よりも焦がれてしまう。
兎に角明るさを求め、キラキラと光った東京の下では、物事はかえって霞んでしまうだろう。嫌な部分も全て露見してしまうから。
谷崎は、陰翳ということばに、彼の求める美学を凝縮している。わたしには谷崎の全てはわからないが、彼が礼賛したものは何だったのか、彼の体験を想像しながら、わたし自身の目の前の物事を思うことが出来る。
日本の文化は、見る者に想像させることで深みを増してきたものだと思う。
ことばはその最たるものだ。
古典が、幾重にも仕掛けられた引用元を想像させることで価値を増したように、今の日本のコンテンツも見る側の想像力を以てより味わい深いものになるのではないだろうか。
三田論では、創作について取り扱う。
何かこの前身から得られるものがあれば良いのだが。
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