2010年8月28日土曜日

雑多な思考0827【高橋】

夏休みも残すとこ1ヶ月ほどとなりました。
ここんとこ遊べてないのがちょっと心残りなので世間が忙しくしてる9月こそ羽伸ばしたいと思います。

さて、私は夏休みに入って一人の時間は普段見ないDVDを見たり本を読んだりして過ごしていたりもするわけですが、バイト先では普段そこまで話したことない人たちとよく顔を合わせるようになって色んな話を聞いたりしてふと色んなことを考えるようになった気がします。
些細なことでも気が付いたら悶々と考えていたり…。そこで最近よく自分で考えていることをご報告しようと思いました。

<その1>
自分の価値観は世の中に共通するものではない。
故に他人にそれを押し付けるようなことなすべきでないし、してはならない。
しかし「世の中」とは一体何を指すのか。
『「常識」を疑え』という言葉があるように、共通認識としてある事柄にはどこまで従うものなのか。
そもそも自分は何が共通認識としてあるのかわかっているのか。
「共通認識」とな何なのか。
「我流」と「非常識」の違いは紙一重だし、非常識だと軽蔑されるが個性をだせともいわれる。
もちろん多くの人に埋もれてつまらない人間にはなりたくない。
しかし自分が信じて積み上げてきたものは一方的な見方からしか成り立っていないんじゃないだろうか。


こんなことなどをふと考えて辿りついた解決策が「きく力」でした。
きく力=聞く力・聴く力・利く力・効く力・訊く力
自分の世界が狭いのなら広げていけばいい。
こうして吸収すればいずれは放出する力に繋がるのではないでしょうか。
偏った意見や考えは持ちたくないと思ってはいるのですが、まだ多様な物事に触れ合えてないのも事実です。
スタンスとしては、まずは中立→吟味→判断というステップをもって物事に取り組めるようになりたいです。先入観や偏見は人に対してのみならず、何に対しても持たない。それが一番の障害となる。

<その2>
話はズレますが、きれいごとに聞こえるのは重々承知ですが個人的に「平和」というものに関心を持っています。互いに理解し合う心を世界中の人たちが持つにはどうすればいいのだろうか。歩み寄りはどうしたら実現するのか。文化や伝統を守るために国境はあるべきだとは思うが、領土的な意味で固執して争ったりするくらいならなくしてしまえばいいのにと思ったりもする。共存は簡単なようで難しい。
しかし自分は「混乱」「戦争」を知らないのに「平和」の何を語ったり考えたりすることができるのかと考えたりもします。
また、国家間レベルの話をしていますが、これをもっと生活レベルまで落とし込むと、凶悪事件、さらにはいじめなど…。
誰もが慈愛の心を持って聖母のようになれとは思いませんが、最低限相手に対する思いやりさえあれば解消するんじゃないのか。私は人にえらそうに何か言えるような出来た人間ではないし、争いが嫌いなくせに波風立ててしまったりする無神経な人間です。ならば、「平和」を願う代わりにせめて自分だけでも害を与えるような人間にはならないようになりたい。自然体でそうできる人間になることが私の人生の目標だと思います。


本をよく読むようになったせいか、このように雑多な考えが浮かんでは消え、また違うことを考えていたります。去年と比べてこんなにも活字を読むようになったり、考えごとをよくするようになったのは一重にゼミのおかげだと言っても過言ではないと思います。視野・見聞をどんどん広げていくためにも、引き続き読書はもちろんのこと、色んな人と出会って、色んな場面を経験していきたいです。今しかできないことなど、学生であることを存分に堪能したいと強く思う今日この頃でした。

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