2010年7月3日土曜日

【ホンヨミ!】0702②日本の難点【斎藤】

日本の難点/宮台真司

 本書の第一章コミュニケーション論、メディア論を中心に述べていこうと思う。まず、若者同士の関係性がフラットになったか、つまり希薄なものになったかどうかを問題にする際に自分が自分である事は何に支えられているかを考える必要がある。筆者は他者とのコミュニケーションの履歴によって自分を揺るぎないものにできると考えるが、それを感じる機会も減っており、そういった機会を支える社会的なプラットフォームも空洞化していると主張する。

 現代では交通、通信インフラの発達、IT技術によってによって人口の流動化が促進されてきた。昔のように、地理的に近い人と親密な関係を築くしかなかったスタイルとは異なる社会のあり方になった。そういった流動性のなかでで、こっちの人がだめならあっちといった感覚で代替可能性を考えられる人間関係になっていった。つまり、流動性の上昇により他者への深いコミットメントは求められなくなったと言える。

 確かに、Twitterやmixiのサービスでは同時に多数の人に対してメッセージを発する事が可能であり、その時に特定の誰かを想定する事は少ない。交友関係は広範になる一方で、その付き合いは希薄なものになっていると私自身感じることはままある。また、携帯小説などでは物語よりも個々の事件などが重要となってくる。人との関係性の履歴ではなく記号的な意味での事件の羅列にたいして読者が共感するのだ。こういった面からも人間関係がフラット化していると言える。

 ただ、これまでにはなかった形で他者とコミットする事ができる様になったことで、これまでとは違ったコミュニケーションが形成されていく。例えば、特定の掲示板でマニアックな趣味を持つ人々が交流できる。これは今まででは難しかった事だろうと思う。同時に妙に緊密な近所付き合いなども求められることなく、あっさりした人間関係であっても生活に支障ない社会は必ずしも悪いとは言えない。互いに関心のあるもの同士が人間関係を構築していけばよいだけで済む快活さもあるのではないかと思った。しかし、そういった者はあくまでも友人関係に関しての楽観的な甘えであるとも言える。やはり、社会という共同体の一員として生きている以上、何らかの形で他者にコミットするように心がける必要があるのだろう。

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