2010年6月3日木曜日

【ホンヨミ!】空間メディア入門【戸高】

平野暁臣著『空間メディア入門』

 空間メディアとはなんなのか。まずはここから入らねばならないだろう。空間自体はまさしく僕たちが生きている場所だ。
 ではその空間はどのような役割を担っているのか。主に3つある。

・メッセージを伝える
・コミュニケーションを媒介する
・アクティビティを誘発する

 こうした役割を担っている空間を「空間メディア」という。特定の空間に人間を集め、固有の体験を提供する。空間に情報を織り込み、体験を通じて相手とコミュニケートする。つまり、情報を出来事としてつたえるのが空間メディアだ。

 役割はわかっただろう。では具体的にどのようなものが空間メディアなのか。美術館や展示物、博覧会などは空間メディアの代表物だ。
 しかし、これらの空間メディアの中に、あまり「空間メディア」らしさというものを有効活用しているものは少なかった。
 展示物と言っても、パネルにつらつらと説明文を書く、いわば情報を垂れ流しにしているだけでは意味がない。いまや情報の垂れ流しはインターネットで十分になっているからだ。
 昔は情報というものが本で調べる、見識のある人に聞く、美術館や博物館の展示を見て仕入れるといったように、アナログな手段でしか得ることができなかった。
 しかし今となってはインターネットの登場で、情報は獲得しに行くものになった。インターネットの登場によってメディアの生態系が変化したのだ。空間メディアは空間メディアにしかできないことをすべきで、また生態系に適応して行かねばならない。
 
 では空間メディアしかできないこととはなんだろうか。それを考える前にもう一度定義を確認しておきたい。
 空間がメディアであるとは?これはなんなのだろうか。
 「あらかじめ用意された文脈を伝えるために設けられた空間。空間そのものが情報を伝える機能を果たす。」ということが定義できるだろう。つまり「空間で語る」とは、情報を空間体験として伝えることができるか。
 ただ情報を伝えるのではなく、体験させる。言わば共有するというのが近い認識なのかもしれない。

 ならば空間で情報を体験させる、共有するために必要な要素とは何だろうか。本著の中では以下の3つが挙げられていた。

1空間性:3次元空間の特性を活かした情報環境が構成されている
2身体性:視覚的に見るだけでなく、体感的なファクターがあること
3参加性:送られてくる情報を受け身で受け取るだけでなく能動的に関わる

 まさしく、「空間」でしかできないもの、体験であるための要素だろう。メッセージを伝えるのはあくまでも「空間」であり、展示物やパネルではないのだ。

 例えば、焼き肉屋を考えてみよう。みなさんはどのような焼き肉屋に足を運んでみたいか。
 もちろん値段が安い、味がうまい、サービスがいい。こういった条件が真っ先にあがるだろうが、このような条件が全て揃っている2店があったとしよう。
 片方の店は「特選A5和牛で、産地は◯◯!エサは△△を与えて育てたブランド和牛を提供します!」といったようなパネルで勝負をしている。
 もう一方の店は特にパネルはなく、店外に「じゅーっ」という肉の焼ける音と、香ばしい肉の香りを漂わせている。音と匂いだけでごはん3杯はいける!といったような感じだ。

 さて、みなさんはどちらの店に足を踏み入れるだろうか。僕なら後者に足を踏み入れる。
 前者の店のタイプ、つまり「能書きを垂れるタイプ」は、理性で返されてしまうのだ。「ふーん、だからなんなの?そんなの他にもあるよね。」と言った風に。
 一方、後者の店のタイプならば理性ではどうしようもできない。反射行動は理性でコントロールすることができないのだ。

 このように、匂いや音というものは空間がもつ3つの要素を表すいい例だろう。3次元空間でしか表現することができず、体感的なファクターがあり、能動的に関わることができる。
 しかし、能動的に関わる部分になかなか工夫がなされていないのも現状だ。よく展示会などでもさわることができますよ、ボタンを押せば音が出ますよ、と参加性を出す試みが見られてはいるものの、どうも形式的なものに収まりがちだ。
 ではどのようにすればこのような形式的な参加性にならなくて済むのか。そのためには空間メディアがもつ3つの他のメディアに勝るであろう特性を活かすべきだ。

1体験を通して実感を伝える=わかるメディア
2対話を通して関係をつくる=顔の見えるメディア
3触発を通して発見を促す=背中を押すメディア

 以上が空間メディアが他のメディアに勝るであろう3つの特性だ。

 インターネットやテレビ、本等は知るメディアということができるだろう。情報を探し、そして認知する。しかし、空間メディアはその知る行為からわかるといった理解の段階まで高める。それは実際に体験としての実感というものが大きいだろう。

 そして、リアルな空間だからこそできる特性の最も大きいものとして、「顔の見える」といったものがあるのではないだろうか。
 例えばCDやカラオケの印税で食べて行くことができる大御所バンドでも、ライブ活動を行うのはなぜか。それはライブでしか得られない経験があるからだ。
 歓声、笑顔、拍手、大合唱、手拍子等、観客からのダイレクトな反応、ともにいる感覚、空気。これらはライブと言う場を共有しない限り、感じることができない。
 もちろん観客側もそうだが、観客の数が多くなればなるほどその熱狂は増して行くが、ミュージシャンとの距離は遠くなる。ミュージシャンとの距離は路上ライブだと近いが、武道館や東京ドームだと遠くなると言った様に、多くの人に届けようとすればする程、距離は遠くなる。その空気をいかに伝えられるかは接触数と反比例するのだ。

 これはライブ独特の特徴でもあるが、これを展示に置き換えるとそういった接触数との反比例をおさえることができる。一度作ってしまえば同じ状態、効果をキープできるからだ。例えば万博のパビリオン、あれを1度作ってしまえば数百万人の人が共同の体験をすることができる。これは大量の観客に情報を伝える際には都合がいいが、インタラクティブさが弱まるといったことが難点としてあげられる。

 ではそういった展示型の空間メディアをいかにして参加性の高いものにしあげればいいのか?「その答えは観覧する道順をはじめから設けない」といった解決策がある。
 普通の美術館などは美術館に入ると年表順や、作者のカテゴリ毎によってなど、はじめから回るルートが決められている。時間軸が神の視点によって定められていると言っても過言ではない。
 しかし、川崎市にある岡本太郎美術館でははじめから一筆書きでは回ることができないようになっている。迷路のような構造になっており、観覧者が好きな順序で自分達の物語を作り上げることを可能にしているのだ。
 このタイプの、「観覧者が自分で物語をつむいでいく」展覧会は確かに自分が参加したものでも、「参加してる!」といった印象が強いものが多かった。





 これは昨年、六本木のミッドタウンで行われていたとあるイベントなのだが、開場全体が雲のような綿で覆われており、その回る道順は雲の迷路をたどって行くようなものであった。
 コンセプトが一貫し、伝えたいメッセージが明らかになりながらも、観覧者の回り方により自由にストーリーを紡ぐことができる環境で、実際とても楽しかったのを覚えている。

 このように、参加性を高める工夫までは述べてきた。ではデジタルメディアを全く無視してもいいのだろうか。
 筆者は「デジタルメディアと空間メディアは「代替」ではなく、「補完」しかし蜜月でない。言わば、「競争関係」にある。基本的に陣取り合戦をしながらも、相手にしかないものは相手に任せる。」
 と述べていた。この考え方がしっくりするのではなかろうか。
 最近、AR技術の進展により、美術館や博物館でAR空間を活かし、復元したものを展示すればいいのではないか。といった話もある。確かにそれは博物館に人を呼ぶためには有効な手段として生きては来るだろう。
 しかし、それだけでは人は来ないだろう。AR空間があっても、それは3次元空間のみで伝えられることではない。バーチャルでやれといわれたらしまいだ。ARを用いつつも、一貫したコンセプトでメッセージを伝えつつ、観覧者が自由にストーリーを組み立てることが可能な空間を演出する。これをわすれてはならない。
 メッセージも。「◯◯だ!」ということを100%伝えるのではなく、「これって◯◯なんじゃないかな?」と言った様に考えてもらう型の方がいい。これが背中を押すメディアたる由縁だ。
 映画や小説、マンガ等も「これはこういうメッセージをつたえてますよー」などといったものはあろうか。あったとしてもそういったものは駄作が多くはないだろうか。押し付けがましいメディアになってしまっては意味がない。能書きを垂れてはいけないのはここでもそうだ。

 空間としての特性を活かしつつも、デジタルと協調していく。リアルとアンリアルの連動はここでも重要なトピックの1つだ。

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