2010年6月2日水曜日

【ホンヨミ!】14歳からの社会学【戸高】

宮台真司著『14歳からの社会学』

 なんやかんや書いてありますが、社会学というものは最終的にはその人の主観に行き着く学問ではないのかと実感した一冊。

 「社会」とはコミュニケーション可能なものの全体のことである。この作品の中で彼は何度もこう主張する。



 イメージとしては以上のような感じだ。人間がコミュニケーション可能な世界のことを社会。それ以外のものを世界であると。世界の中に社会が存在するのだと。
 では人間がコミュニケーション可能なものとはいったいなんなのかと言うと、彼はもちろん人間だと言う。私はここに少し疑問を抱いた。
 自然や都市、はたまた宇宙などの我々を取り巻く環境はどうなるのかと。環境と我々はコミュニケーションをとっていないだろうかと。
 むろんそういった環境を作り出すのは人間だ。ならば環境等を考える際、必然的に我々は人間のことを考えているということにもなる。人間を考えているからこそ環境のことを考えていることにもなる。どちらが起点でどちらが終点なのかということはなく、ぐるぐると回っている。
 人の行動に影響を及ぼすのも社会だ。「社会が悪いから。」とよく人は言う。しかしその社会を構成しているのも人間だ。つまりは社会の構成員である人間が悪いという所にも帰結してしまう。これも社会が人間に影響を与え、人間が社会に影響をあたえと言った循環構造を生み出す。
 
 しかし、人は「社会が悪いから。」と考えがちだ。これは現状の政治を見ていてもそうだろう。ちょうど今日(2010年6月2日)、民主党の鳩山由紀夫氏が内閣総理大臣職を辞任した。
 巷では鳩山政権になって、「日本が悪くなった。」と言った声もよく聞く。「辞めて当然。」と言った声もある。しかし、その鳩山由紀夫を日本のトップとして選んだのも国民なのだ。
 ならば、政治に対して国民一人一人がどうすることができるのかを考える義務がある。我々は政治とは自分に関係がないものと考えがちだが、コミットメントしている事実を思い出す必要があるだろう。
 
 日本国民とは「日本人みんな」のことだと言うことができるだろう。しかしここで「みんな」とはなんなのかを考える必要性が出てくる。果たしてみんなとは誰までをさすのか?これが現代社会ではわかりにくくなっている。
 「日本人のみんな」といっても、外国人で帰化した人は日本人なのか?といった話にも繋がる。また地域社会の疎遠化などの例にあるように、自分の身の回りの人間のどこまでが繋がっているのかということも希薄になっている時代だ。
 一方、インターネットの登場で「繋がり」というものが過剰に意識されている時代でもある。リアルでの繋がりは薄くなりながらも、アンリアルでは繋がりを求める。奇妙な時代だ。
 昔は(高度経済成長期)みんなの顔をイメージすることが容易だった。隣近所の付き合いがあり、家の前や公園では子供達が遊び、会社帰りの大人もそこに交わったりする。悪いことを子供がすれば大人が注意すると言った様に、自分が関わっている人間の顔が常に見えている時代だった。でも今は違う。
 社会学的にはみんな(公的)といった概念が成立するには2つの要素が必要だ。

1誰がみんなかについて、合意があること
2コミットメント(熱心な関わりがある)があること

 まず誰がみんなか、我々かということについて、「僕」「あなた」「彼」「彼女」が合意している必要がある。そしてその上で「みんなが生きて行くために、これが重要だ」といったコミットメントが必要なのである。
 今の社会ではそのみんなに関する合意が難しいからこそ、政治的無責任にもつながってくるのではないだろうか。つまり、コミットメントすることが難しい時代になっているのだ。
 それは政治だけでなく、自分が生きている場を考える時にも言えるのかもしれない。自分がコミュニケーションをとっている「社会」にたいして、自分はコミットメントしているだろうか。これを常に意識する必要があるだろう。

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