2010年6月6日日曜日

【ホンヨミ!】コミュニケーション——自由な情報空間とは何か (自由への問い 第4巻) 【戸高】

北田暁大編『コミュニケーション——自由な情報空間とは何か (自由への問い 第4巻) 』

 情報空間における「自由」について幅広く書かれた本。もちろんここでいう情報空間とは勘違いしがちな「インターネット」におけるものだけではなく、新聞、テレビ、雑誌、インターネット、いわゆるメディアが織りなす空間のことを言っている。
 とは言うものの、今関心があるのが主にインターネットにおける空間(サイバー空間)における情報空間だったので、そこに焦点を絞って今回の書評を書かせていただく。主に注目する点は2つだ。

①インターネットに民主主義は成立するのか。

 インターネットにおける特徴の1つに匿名性というものがある。これがあるからこそ、ネットでは多様な言論が飛び交ってはいると考える見方もある。
 しかし、インターネットでは自分で情報を獲りに行くことが基本とされているので、自分の好きな、興味のある言論のみどんどん聞いて行くことになる。結局ネットは分極化傾向を煽るだけで、集団の対立が激化するのではないか?といった問題提起をすることができる。
 では実際の社会空間はどうなっているのか。社会空間はきれいごとで溢れている。マスメディの偏向報道しかり、人と人同士が対面でコミュニケーションを行う際もなかなか本音を言うことができず、なあなあな意見しか述べることができないと言ったことはある。つまり激しい言論をふるうのは難しい。
 それはなぜか。誹謗中傷の的になり傷つく恐れがあるからだ。だから匿名掲示板の議論はニヒリズムになる。社会に置ける自分の存在を傷つけることなく社会復帰できるから、リスクが少ないためだ。
 しかしただ単に無秩序なわけではない。インターネットは風通しがいい空間であり、だからこそ、タブーとされているような情報が流通する空間でもある。
 権力者しかアクセスできなかった「リアル」な情報に対してインターネットにより誰にでもアクセスできる様になった。
 さらにアクセスするだけでなく、誰にでも発信できる様になったことで、よりリアルな情報が流れる様になった。昨年、イラン選挙に関してで報道規制が敷かれても、twitterやyoutube、flickerでマスコミによるものではなく、一般人による情報交換がされていたのがその例だ。

 これを考えてみると、一概にインターネットに民主主義が生じないと考えることは無理だろう。
 そもそも民主主義とはなんなのか。大辞泉にはこう書いてある。

人民が権力を所有し行使する政治形態。古代ギリシアに始まり、17、8世紀の市民革命を経て成立した近代国家の主要な政治原理および政治形態となった。近代民主主義においては、国民主権•基本的人権•法の支配•権力の分立などが重要とされる。現代では政治形態だけでなく、広く一般に、人間の自由と平等を尊重する立場をいう。デモクラシー。

 「人間の自由と平等を尊重する立場」とあるように、インターネットは実社会よりも「自由な」空間であろう。匿名である、つまり実社会の自分からの自由を求めて人はインターネットでコミュニケーションを行う。この意味では民主主義が成り立つことになる。
 少し政治的側面へも目を移すと、「諸個人の意思の集合をもって物事を決める意思決定の原則・政治体制をいう。」とwikipediaにはある。
 「みんなが集まってなにかやろうぜ!なにかうみだそうぜ!」といったような、今まで受け手であった立場の人間が生産する立場にもなるという、「生成力」の場としてのインターネットも「自由」な空間であるからこそ様々な創造性が高められているのだろう。
 しかし、完全に「自由」であれば、生成力が育まれるといったものではない。例えば濱野智史氏によるニコニコ動画のタグのカオスさから生まれるニコニコ動画全体の生成力の論考からも見て取ることができる。
 ニコニコ動画のタグが従来型の「誰もがいくつでも自由に付与できる」蓄積型のそれではなく、動画ごとに「最大10個まで」でありながら「誰でも自由に削除できる」という点が特徴的だ。こうした10個という制限と、誰でも削除可能という自由が相まって創造性が高まって行く。
 こういったインターネットにおける民主主義、生成力を高めるためには、完全に設計者側が手を出さないという方法もあるが、なんらかの手を加える(自由と制限を与える)ことでよりよい効能を与えることができるのではないか。

②サイバーシティにおける自由

 サイバーシティの定義は、インターネット上で形成されるコミュニティのようなものをイメージしていただきたい。
 
「都市は観光客向きの文化的幽霊としてならともかく、もう実在しない」

 これはマクルーハンの言葉だ。この言葉はどういう意味かというと、「どのハイウエイの食堂にもテレビがあり、新聞があり、雑誌がある。それはNYやパリと全く同じ様にコスモポリタン(国際的)だ。」といった彼の言葉からわかるように、都市の社会的機能がメディアの中に移転してしまい、都市に人や情報を集める必要はもはやなくなってしまったということを示す。
 つまり、都市を結び目として土地空間上に存在してきた人と物と情報が流通するネットワークと、そのネットワーク上で都市に担われてきた情報の集積、交換、組み替え、共有、発信と言った機能が20世紀の世界ではマスメディアのネットワークによって代替されるというのだ。
 そして21世紀、こうした都市の機能がマスメディアだけでなく、インターネットにより代替されているということもできるだろう。簡単な例だとAmazon。買い物を行うという市場の機能。そして自分が欲しいものがどのような評価を受けているのかを知る口コミや広告の機能がAmazonというネット上の市場1つで代替されている。
 このように注目が集まるサイバースペースにはどのような自由があるのか。主に4つあると本著の中には書いてある。

1物理的な世界からの自由
 情報技術の高度化と普及によって、人間の歴史がとらわれてきた身体性や物質性からの解放がもたらされる。サイバースペースが可能にする情報空間が物理的な空間と並行するパラレルワールドになる。
2時間と空間からの自由
 コンピューターネットワークによるリアルタイムでの情報の送受信が地理的な距離を無意味化し、世界的な規模での自由主義経済が展開するという「空間と時間からリアルタイムへ、距離の死と新自由主義的グローバルエコノミーのユートピアニズム」。自由の勝利による一つの世界の出現。
3民主主義的な自由
 「サイバーリバリタリアニズム」アルゴアの情報スーパーハイウエイのような、高速の双方向通信網によって、真の自由主義的民主主義が可能になるだろう。地球規模での民主主義が、高速通信がインフラとなって可能となる。
4自分の身体からの自由
 人間の身体が端末を通じて情報ネットワークと結びつくことで、人と人との対面的で身体的な出会いと関係はもはや社会関係の基盤ではなくなり、端末を通じての沿革的な現れ(テレプレザンスをもつ端末市民、ターミナルシティズン)が住む、空間的限定を越えた「限界なき都市」が現れる。ここではサイボーグという言葉が表す様に、メディアとそれらが仲立ちするコミュニケーションのネットワークが人間の身体と結びつき、その不可欠な一部となることで、人間と都市の双方が場所性や領域性の限界を乗り越えるとされる。

 もちろんこういった自由な側面があるにもかかわらず、この論の弱点も存在する。
 例えばサイバーシティ論があり、物理的な世界よさらば!といったような風潮が高まっているのにも関わらず、「あれ?でも1900年から2000年にかけて世界の都市人口が10%から50%に増えているんだけど?」と言われればそれでしまいだ。
 他にも情報技術というものに焦点を当てすぎるがあまり、「シティ」というからには重要になっている「場所性」にあまり焦点が当てられなくなっていることや、実社会に関する論が薄れていること等、弱点をあげればきりがない。

 ではなぜサイバーシティに注目が集まるのか?
 それは、実世界と同じような組織や人間の消費行動が行われ、そこでの関係のあり方がより小規模な村や多くの人や場を尋ねるには長い距離の移動が時に必要な国よりも多くの集団や組織が高密度で集まり、多様な関係の可能性に開かれた都市に似た側面をもっているからだ。
 サイバースペースの都市性は、「大量、高密度、高異質的な人口を要する恒常的集落」という社会学における都市の古典的な定義に一致する。
 だからサイバーシティ、再バースペースも、都市の人口の多さと場の多様さ、見知らぬ人と見知らぬ場所の多さ、そこで出会い得る出来事や機会の多さが都市を様々な出来事や関係の可能性を内包した「自由な場所」となることを可能にするのだ。

 そこで得ることのできる自由は先程述べた4つの自由となるが、自分からの自由、別の自分への自由(実社会での顔や名前等を捨てて人と交流できる)といった所が、もっとも意識しやすい、そして追い求める自由ではなかろうか。
 別の自分になることができるからこそ、実社会では無理だった自己実現が可能になる。だから人はサイバースペースに幻想を抱くのではなかろうか。

 
 

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