2010年5月26日水曜日

【ホンヨミ!】ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る【戸高】

梅森直之編著『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』

 「想像の共同体」という言葉を一度は耳にしたことがあるだろう。この言葉の創造者、ベネディクト・アンダーソンが2005年に早稲田大学で行った講演の内容がおさめられている一冊。

 「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」これはアンダーソンが述べた有名な言葉だ。
 ここで当たり前の様に「国民」という言葉が使われているがそもそも「国民」とはなんなのか?「国」とはなんなのか。ここから考えねばならない。
 ここは我々が考えやすい「日本人」という「日本国民」を考えてみよう。日本人とは何なのかということを考える際に、大きく分けて3つの考え方ができるだろう。

1日本人とは礼儀正しく和を重んじる=文化的規定
2日本人とは日本国籍をもつ=法律的規定
3日本人とは日本史の教科書に書かれてきた人である=歴史的規定

 これらは全て「日本人」という概念がありきで述べられている。いわば日本人という要素を、決定的特質として還元されたものと見なすことで議論が行われている。これを本質主義と言う。
 しかしこの本質主義は先に、「日本人」という決定的特質を定めてしまっているので、ここで思考停止になってしまう。つまりはこれ以上の思考を止め、白旗を揚げている状態でもあるのだ。
 実際にこの3つの考え方も、考えてみるとどこかおかしい。
 文化的規定はそもそも模範的な日本人の存在ありきで進めている。ではその日本人ってなんやねんって話になるのでアウト。
 歴史的規定は縄文時代とかに列島にすんでた人は日本人なのか。彼らに何人ですか?と聞いても何人かわからない。また逆に台湾や朝鮮半島を占有していたことがあったが、彼らは日本人なのか?
 法律的規定は日本国パスポートがもらえる人=日本人。ならば帰化した外国人も含まれる。ならば彼らを日本人と認めることができるか?ここで文化的な規定に縛られることにもなる。
 外国人が日本国籍をもったからと言って安易に日本人とは認められないよね?せめて日本語は喋れないと・・・と言った様に文化的な要素がここでまた関わってくる。

 ではアンダーソンはどのように考えたのか。アンダーソンは日本人を作られる何かとして捉えようとした=構築主義。日本人が先にいるのではなくて、日本人は何かによって作られている。そんな考え方だ。
 
 そこでアンダーソンが想像の共同体を成り立たせる2つの要素として用意したのがこれらだ。
共同体というものを成り立たせる感覚

1同じ時間を生きている感覚(同時性)
2同じ境界の内部に属している感覚(限定性)

 時間的な同時性を共有し、共同体になるには境界が必要になる。アンダーソンはその境界を作り出すものを「言葉」にもとめ、出版資本主義という言葉で説明した。ここでも想像しやすい日本語を例に考えてみる。
 日本語=日本人が話す言葉。しかしその中にも方言があり、職業、年齢層、性別、階層によっても差が出る。標準語といってもそれはアナウンサー等のみが喋る俗語である。
 では標準語が日常生活の話し言葉でないとすれば、なんなのか。出版語である。これは出版業界が確立する時期に書き言葉として登場した新しい言葉である。
 出版が産業として成り立つ為には市場を十分に拡大させる必要がある。方言で書かれた文章じゃ、特定の地域の人にはわかりやすくても市場としては狭くなってしまう。(例えば東北弁で書かれた新聞や小説が、東北の人々に理解されても、東京の人が読むとちんぷんかんぷんになってしまい、限定的な市場しか獲得することができない。)
 この統一的な市場の必要性に応じて作り上げたものが「国語」である。そして、その「国語」を使用することによって、その国の人は自分がその国に属していると意識するのだ。
 日本人ならば日本語を使うことで日本人であると理解することができる。例をとってみよう。
 新聞は、北海道から沖縄まで同じものとして、見知らぬ大勢の人間が新聞を読んでいるということを無意識のうちに知る。この意味で毎朝新聞を読むという行為は北海道から沖縄まで列島に暮らす人々の間につながりを生み出す儀式なのである。
 新聞を読むたびに同じ言葉の新聞を読んでいる無数の人々の存在を認知し、その共同体への帰属確認を行っていると言っても過言ではないのだ。
 「出版資本主義」を通じて固定化された言葉は、「均質で空虚な時間(◯月×日△時□分という、時計で計られる時間は無意識のうちで見知らぬ人同士の間に同じ時間を生きるという繋がりを作り出している。)」による開かれた人間のつながりを境界によって囲い込む。
 この開放と閉止の同時進行が国民という想像体を可能にするメカニズムである、とアンダーソンは主張している。

 この想像の共同体は国家や文化レベルのみで語られるものではないだろう。
 ウェブの世界、特にユーザー同士の交流のあるサイト(SNSしかり、掲示板しかり)ではそのサイトでの「想像の共同体」が構成されている。

1同じ時間を生きている感覚(同時性)
2同じ境界の内部に属している感覚(限定性)

 先ほども記述したが、これが「想像の共同体」を形成する2つの要素だ。
 ソーシャルメディアによって「リアルタイム」ということが強調されるようになっているが、より多くの人と同じ時間を生きている感覚を得ることができる様になった。
 しかも同期的なメディアは数種類に別れる。ニコニコ動画的ないつでも祭の「擬似同期」的メディア、セカンドライフ的なあとの祭状態の「真性同期」的メディア、twitterのように自分が好きな時に同期をおこすことができる「選択同期」的メディア。
 そして「国」という境界はほぼ意識されることはなくなり、そのサイト内での内輪性ということが逆によりいっそう強く意識されることになった(2ちゃんねるに見られる書き込みや、twitterの〜なうなどもそうだろう)。
 この2つの条件を満たすソーシャルメディアのおかげで、全ての人間がフラットな状態で、人種も国籍も関係なく、「想像の共同体」を築く時代に今、なっているのではないか。

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