2010年5月27日木曜日

【ホンヨミ!】嗤う日本の「ナショナリズム」【戸高】

北田暁大著『嗤う日本の「ナショナリズム」』

 「嗤う」という漢字をみなさん読めますか?僕は最初なんて読んでいいのかわからずググりました。「わらう」と読むらしいです。「笑う」よりも「嘲笑」的なニュアンスが込められているそうです。
 これは昨今の(本著の中では60年代〜70年代の学生闘争、80年代のマスコミが提示する価値体系を十分に咀嚼し、自分の記号的位置を演出するという、マスコミが演出する秩序のなかで位置取りをすることを求められていた消費文化、そして90年代の若者と順を追って説明しているが)若者文化、特に2ちゃんねるによく見られると筆者は述べている。
 ここでは「繋がりの社会性」というものがひとつキーワードとなって出てくる。

 90年代半ば以降になると、自らと非常に近い位置にある友人との繋がりを重視する様になる。と筆者は述べている。その繋がりは共通の趣味、カタログと言った第三項によって担保される物ではなく、携帯電話の自己目的的な使用に見られる様に(私はあなたとコミュニケーションしてるんですよー)、繋がりの継続そのものを目的としている。理念、共通価値の支えのない共同体が形成されているのだ。
 この現象を2ちゃんねる内では、マスメディアを、繋がるために、コミュニケーションの素材として消費する、としている。
 従来、情報を流し、ジャーナリズムの役割を担っていたテレビや新聞が、2ちゃんねる内のニュース実況板などで、アナウンサーの言動や、コラムニストの批評する態度等を何かにつけて批判し、それをAAや2ちゃんねる特有の言葉遣いを用いて、コミュニケーションを楽しむ為の1つのツールとなっていると言うのだ。
 つまり2ちゃんねるはマスメディアの為の内輪なのではなく、内輪の為のマスメディアといった構図を作り出している。

 では、このように、自分達が繋がる為に、マスメディア、もしくは日常をコミュニケーションのツールとして利用しているのは、2ちゃんねらーだけなのか?
 そんなことはないだろう。我々も同じようなことを無意識に行っているのだ。
 例えば電車に乗っている際に、明らかにこの人はカツラなのではないか、といったサラリーマンが自分の目の前に座ったとする。これを見てあなたはどうするか。
 もちろん何もせず、「あーカツラなんやなー。はげたくないなー。」と思うだけで終わりの人もいるかもしれない。しかし、このことをmixiやtwitterといったソーシャルメディア、もしくは誰か友人に直接メールで伝えるかもしれない。言わば実況を行うのだ。
 これは本質的には2ちゃんねらーの実況板での行為と何ら変わらない。繋がりを継続する為の行為だ。

 しかし、この繋がりを常時求める若者の傾向は、そしてそのような若者が作り出す共同体は果たして筆者が述べるような、「理念、共通価値の支えのない共同体」なのだろうか。
 僕はそうは思わない。先日の書評でも書いたが、アンダーソンの「想像の共同体」を成り立たせる条件として、

1同じ時間を生きている感覚(同時性)
2同じ境界の内部に属している感覚(限定性)

 があった。2ちゃんねるの実況はまさしく実況という「同時性」が重要になってくるし、その実況板にいるという「限定性」も担保されている。そしてその実況板に集まってくる人々は(特に実況を行う様な2ちゃんねらーはその板に常駐している人々が大半だろう)その板における目的、共通価値をもっているのではないか。
 むしろそういった目的や共通価値を彼らが作り出したのだと言ってもいいのかもしれない。AAや決まり文句等が生まれ、それがどのような文脈において使われるのか。また、極度に右傾化したような言質等もそうなのではなかろうか。
 このように繋がりを感じているからには、何かしらの共通の価値観があるのではないかと僕は思う。
 また、筆者は「その繋がりは共通の趣味、カタログと言った第三項によって担保される物ではない。」とも言っている。これについても僕は少し疑問を感じる。
 みなさんはtwitterなどでとりあえずのフォロワーを増やす際には何を基準にフォロワーを増やすだろうか。リアルでの知り合いとしかフォローしあわないといった人もいるかもしれないが、大半の人は自分の興味ある有名人や共通の趣味のある人を選ぶだろう。
 ここでやはり「共通の趣味」というものは重要視されているのではなかろうか。もちろんこの本が書かれたのは2005年で主に00年代前半までの若者文化についての分析がなされている本なので、まだソーシャルメディアというものが十分に発達していなかったのであまり意識しなかったのかもしれない。
 しかし、現在ではむしろ趣味といった物が以前より意識される物となっている。08年の論文活動を行っていた時に何かで読んだのだが、現在の高校生には、初対面の同級生などと会う時に、前略プロフなどで相手がどのようなことに興味をもっているのか等について確認してからでないと、話すことができないという者が増えているらしいのだ。
 このように趣味がより意識される時代になると、twitterという場で「想像の共同体」が作られるのではなく、自分がその趣味にあわせてフォロワーを選んだ、フォロワー同士の中でより細かい想像の共同体が作られているのかもしれない。(リスト毎になど)
 趣味を繋がりの社会性のために消費する時代。これがソーシャルメディア時代の若者の文化消費の形なのかもしれない。

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