2010年5月24日月曜日

【ホンヨミ!】アーキテクチャの生態系【戸高】

濱野智史著『アーキテクチャの生態系』

 読むの二回目です。去年の論文前と後で読むと受ける印象がけっこう違いました。

 最近ゼミで「アーキテクチャ」という言葉をよく使う様になった印象があると外からも聞けば、自分自身も思います。以前のサブゼミの時も話題となったので、簡単にまとめておきたいと思います。

 まず、アーキテクチャという言葉を使い始めたのはかのローレンス・レッシグでした。彼は著書、『CODE』の中で、人間の行動を制御するものは4つあると言いました。

1規範
2法律
3経済市場
4アーキテクチャ

 アーキテクチャに関係のない他のも含め、飲酒運転の例を用いて説明しますと、

1規範
 飲酒運転は悪だ!のんだらのるな!のるならのむな!
 このような、一種の飲酒運転撲滅キャンペーン等で、人間の心理に「やっべ飲酒運転やめとこー」と訴えかけるのが規範です。倫理的なものがそうですね。

2法律
 実際に飲酒運転は道路交通法で取り締まられています。法律で悪いと決まってるから飲酒運転はできない。これが法による規制です。

3経済市場
 飲酒運転をすると罰金がとられます。飲酒運転の罰金は市場を通じたものやサービスの売買にはあたらないので、厳密には違うとも言えます。しかし、経済感覚に(罰金ってもったいない!)訴えかけることができるので市場による規制といえます。

4アーキテクチャ
 これは自動車自体に、「アルコールを感知するとエンジンがかからないとする」といったようにすることです。つまりは、絶対的に飲酒運転をなくすことができる方法です。
 前の3つは価値観やルールと言うものを内面化する作業が絶対的に必要不可欠です。
 しかし、この4つ目のアーキテクチャは被規制者がどのような価値観の持ち主であっても、技術的、物理的に行動を制御してしまうという手法です。

 しかしこれだけではアーキテクチャに対する規制は不十分で、もう1つ意識せねばならないことがあります。
 それは、その規制者の存在を気付かせることなく、被規制者が「無意識」のうちに規制を働きかけることが可能である、ということです。
 例えばファーストフード店の座席を意図的に固くしておくことによって、店の回転率をあげるといったことがこれにあてはまります。

 筆者はこのような誰にも気付かれず、何かしらの方法で人の行動を規制することが可能なアーキテクチャを用いることによって、なんらかの社会秩序や社会設計を生み出すことができるのではないかと述べています。つまりは「規制」という「権力」的側面に注目していない所に特徴があるでしょう。
 (人間はどうも「規制」と「権力」というものを結びつけ、マイナスなイメージ、そしてそれに抗おうとする性質があります。)

 アーキテクチャに関する説明はこのくらいにしておいて、以下雑感を述べて行きます。
 よく日本がガラパゴス化しているといったように揶揄されますが、それはweb空間においても言えることでした。
 たとえば2ちゃんねるという巨大な匿名掲示板。2ちゃんねるではその匿名性が故、個々が自由に表現が可能になったとはいえ、否定的な見解を述べる知識人も後を絶ちません。
 その1人がかの梅田望夫氏です。彼は2ちゃんねるはblogとは違いweb2.0的なものではないと否定しています。
 なぜかというと、2ちゃんねるは内輪集団の中に個を埋没させる=総表現社会の中で個をエンパワーメントすることにはならない。と言うのが彼の主張です。
 また彼は、「もっと個をほめろ!日本のウェブ社会は個をけなすばかりでほめなさすぎる!ほめることでエンパワーメントするんだ!」といったことも一言っています。
 2ちゃんねるはこの図式に入らない。戯言とルサンチマンによる足の引っ張り合いでしかない。個を褒めることによって「個のブランド化は進む」のです。
 「個のブランド化」とは、例えばネットオークションなどで、出品者は商品をできるだけ高く売りたいので、個人としての評判を高めたいと思い、詳細な情報やアフターケアなどをしようとします。
 そうした丁寧な出品者に対して、落札者側が好評価をつけることによって、その人の価値が高まって行き、果てにはブランドとして成立するといったようなことです。
 
 この「個のブランド化」はソーシャルメディアを考えて行く際には重要になってくるのではないでしょうか。
 twitterの似たような機能をもつウェブサービスの1つとして、mixiボイスがあります。このmixiボイスは、twitterユーザーからすると、「またmixiがまねごとを始めたのか」と言った様に否定的な見解も見られるのですが、1つ独特な機能を持っています。
 それは「イイネ!」の機能です。まぁtwitterの☆をつける機能(ふぁぼる)と一緒やんけと言ってしまえばしまいなんですが、twitterのつぶやきは、「ふぁぼったー」等を通さないと、誰が自分のつぶやきをふぁぼったのかが可視化されないというのが1つの難点です(もちろんtwitterサイト内からでも見ることはできますがめんどくさい。)。
 しかし、mixiボイスの「イイネ!」はそのつぶやきに誰が「イイネ!」をしたのかが見れる様になっているので、その場で「あ、このつぶやきが人に認められたんだ。」ということがわかる様になっています。
 実際、twitter、mixiボイス両方を利用している人の言葉の中に、「すごく些細なことでもmixiボイスのイイネ!に救われているような部分はある。」といったこともありました。
 
 昨年の論文でUGCサイト設計論を取り扱ったわけですが、「総表現社会」においては表現をするからこそ、何らかの形で評価をされる時代になっているわけです。
 その評価が肯定的なものか、否定的なものかはわかりませんが、ユーザーにとって肯定的評価は上手く可視化された方がいい影響を与えるでしょう。
 その去年の論文でも「社会的評価を与える/金銭的評価を与える」といった2つの軸で、自分の表現に対する他者からの評価というものに焦点を当てた。今考えてみると「UGCサイト」というものに限定して考えると、金銭的評価はいらないのではないかと思う。
 例えばニコニコ動画では、ニコニ広告といって、自分の動画が他者により宣伝されると、動画のサムネイルが銀色、金色とバージョンアップしていき、自分の動画が際 立つようになってくる。このように自分の動画が数字だけでなく、色で評価されることが可視化されることが、 prosumerに対してのインセンティブになるのだ。
 ニコニコ動画がこのように社会的評価だけを導入し、金銭的評価を導入しなかった理由を、ひろゆき氏は以下の様に述べている。

「作品の良さに対して、見返りがない状態でお金を払う人がいないと、本当の良さを評価 する軸にならないと思う。制作者に金銭的なメリットが出ると、エロ動画や著作権侵害作 品を上げるとかいう方法でお金を稼ごうとする人が出るという問題もある。」

 本著の中でも書いていたことだが、そもそもコンテンツを評価する軸と言うものは「客観的評価軸」と「主観的評価軸」の2種類に別れる。
 「客観的評価軸」については、wikipediaなどの百科事典などがあげられる。これは情報に信頼性という客観性が必要不可欠であり、主観的すぎるものはすぐに書き換えられてしまったりする。
 一方、「主観的評価軸」いついてはニコニコ動画にあげられる動画や音楽など、いわゆる趣味として消費されるコンテンツがそうなる。
 しかし、ニコニコ動画内では「客観的評価軸」ができてしまっているのではないか。
 ニコニ広告ができる前も、そのコメントの数や内容でその動画に対する評価と言うものは見て取ることが可能だった。そのコメントがニコニコ動画の作品を評価する客観的な軸となっていたのだ。
 しかし、この客観性はニコニコ動画という場においてのみ通用する「限定客観性」である。他の場所でも通用するものではない。しかし、内輪の中でのみ通用するからこそ、その「限定客観性」は時には「祭り」などに派生し、様々なコミュニケーション形態を生むのではなかろうか。

 以上の様に、UGCサイトを設計するには、そのサイトのアーキテクチャとして、表現を評価する(しかも肯定的な)機能を盛り込む方が、ユーザーはもっと表現を行おうとするのでいいのではないか。
 しかもその評価の可視化が内輪性をエンパワーメントし、よりそのサイトを盛り上げる効果もあるのかもしれない。
 内輪性は否定されることがしばしばあるが、日本のUGCサイトなりソーシャルメディアが内輪性をもったままガラパゴス的に成長するのを私はそれほど悪いことだとは思わない。
 日本には日本の社会性などを反映し、アメリカ主導で進化してきたインターネットの世界とはまた異なった独自の進化を遂げてきました。そういったアメリカ流のインターネットを本流と見なすのではなく、日本流のインターネットと別個で考えればいいだけではないでしょうか。
 またそういった日本的なインターネットが海外のソーシャルメディアに機能として組み込まれてきているのも事実なので、(つながりというものが強調されるようになってきた)これから社会の中で、世界の中でどのように日本のインターネットが進化して行くのかを見て行けばいいだけなのだと思います。

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