2010年5月19日水曜日

【ホンヨミ!】メディア・ビオトープ【戸高】

水越伸著『メディア・ビオトープ、メディアの生態系をデザインする』

 ビオトープとはなんなのか?ここから入る必要があるだろう。
 ビオトープとは簡単にいうと、生物の棲息に適した小さな場所である。失われたり壊されたりした豊かな自然を取り戻す為に、人々は裏庭の茂みや校庭の池、近所の境内、ベランダの植木鉢や水槽などといった生き物の小さなすみかに目を付けた。そうした小さな点のような空間にいろいろな生物が済める様に工夫をし、点と点を互いに結びつけ、網の目状に育み、ゆっくりと時間をかけて地域の生物性大系を再生する。
 こういった試みがビオトープ運動、日本では里山保全運動等もビオトープの一環だ。

 ではそのビオトープにメディアという言葉にメディアがつくとどうなるのか。これを知るには現代のメディアがどのように発展してきたのかを理解せねばならない。
 マスメディアは国と結びつきながらマスメディア以外が育ちにくい環境を作り上げてきた。(新聞では、昔700以上の新聞局があったが現在は100程度しかないこと。テレビも地方局の力は弱く、キー局が牛耳っていること等。)
 こういったマスメディアが大きな森を作り上げ、土壌を覆ってしまったため、地域等に根ざした小さなメディアが芽を出しにくい環境を作ってしまったのだ。
 
 こういったメディアの問題はそれを支えるコミュニティの問題、つまりは私たちの問題でもあると筆者は述べる。私たちがいかにメディア表現を自由に行うか、コミュニケーションを自律的に行うことができるかという権利に関わっている問題なのだ。ではなぜそのような問題が生じているのか。
 まず1つに送り手と受けての過剰な乖離が進行し、コミュニケーション不全が生じていることがあげられる。
 マスコミュニケーションはインタラクティブであるべきだ、というのが筆者の主張だ。コミュニケーションというものは受けるだけでなく、発信もするのがそもそもの基本。メディアがコミュニティを生み出し育てもするが、一方でコミュニティとそこに生きる人々がメディアを支え、批判し、発展させると言う機能もあるはずだ。
 次にメディアに表彰されるコミュニティのイメージとメディアを支える現実のコミュニティの実態が著しく切り離されている。
 例えば「いい街」金沢。これは東京発の国家的メディアに表象されたイメージ複合体である。さらにこの表象はそれが映し出すコミュニティに生きる人々をも枠づける。金沢はいい。だからよき行動を振る舞おうと金沢市民はするのだ、と筆者は述べている。
 こうしたことは都市や地域だけでおこることではない。また、メディアが客観的報道を完璧にできるわけではない。その目の前にある対象を記号化し象徴し、変換する。
 問題は現代社会の中ではメディアがコミュニティからはぎとられ、中央集権的権力として情報をまき散らしていることが様々な問題をもたらしているということにあるのだ。

 こんな背景があるからこそ、メディア・ビオトープ的実践が必要とされているのだ。ビオトープが「生物の棲息に適した小さな場所」というものだったように、メディア・ビオトープは「小さなメディア」、言い換えるならば「マスメディアではないメディア」が織りなす環境だということができる。
 マスメディアが作ってしまったこりかたまった環境の中で生きてきた私たちが、メディアに対して批判的になり、一度メディアの枠組みを再編し、誰もが情報を発信し、それをなるべく多くの人に受容してもらいそれを擬似体験してもらう動き。これがメディア・ビオトープということができるのではないか。

 メディア・ビオトープの特徴としては主に4つある。

1小さなメディアに着目する
フリーペーパー、同人誌、地域SNS、ケーブルテレビ、コミュニティFMなど自分達がハンドリングできる規模のメディアを機転としてメディアの生態系をとらえ、組み替えて行く。
2小さなメディアがネットワーク化して展開して行くことを戦略に組み込んでいる
自閉するのではなく、多様性と広がりをもったコミュニティをつくるならば、小さな規模はそのままに、他のメディアとの間に回廊をめぐらせ、ウェブ状のメディアビオトープをつくらねばならない。互いに関わりのなかった領域を異種混合的に結びつければ小さなメディアの生態系はかんたんにダメになったリハしない。しかもその地域はバーチャルのコミュニティでもむしろ大歓迎。
3国家的マスメディア、自閉的メディアのどちらでもない、新たなメディアの様相を提示してくれるのではないか?
4メディアビオトープを生み出す為の道具や素材の必要性
コミュニティFMや地域SNSを作る決まりきった体型などはないが、なんらかの一般論は存在するはず。そういった実践の面もこれからのメディア論は考えて行かねばならない。

 このような、メディア・ビオトープ的な活動を行う上で、必要な要素は3つある。

1メディアリテラシー
2メディア実践
3メディア遊び

 メディアリテラシーとメディア実践は2つで1つであるような気もする。まずリテラシーという言葉は、ただ文字を読むことができる、書くことができるという意味だけではなく、その読み書きの能力を用いて、小説等を読み楽しむことができる、批評に対して自分の意見を持つことができるといった所までを含む。
 これをメディアにも応用すると、常に(従来の)メディアに対して批判的になり、自分也の意見を持つ必要があるということになる。
 そしてその能力を活かして、自分で情報を発信して行く。これがメディア実践にあたるのではないか。
 そういった発信をする際に「遊び」の感覚を忘れてもならない。ただ単なるエンターテイメントではない。人間とメディアの関係性を硬直したものでなく、組み替えていく活動。日常的な物事のあり方を当たり前と考えるのではなく、その意味合いをずらしたり、逆転したり、転化することで笑いを呼び起こし、魂を揺さぶる営みのことだ。
 このメディア遊びは既存のメディアと交流している時ももちろん生まれるが、新たなメディアが出てきた時に最も高まるものだ。今までのメディアとの関係を新たなメディアによっていかに組み替えて行くことができるかということを、リアルに体験することができるからだろう。
 
 たぶんソーシャルメディアというものはまさしくメディア・ビオトープの形成に役立つメディアなのだろう。
 誰でも情報発信を可能にし、さらにそれは多くの人との点と点の結びつきで面となって行く。
 実際twitterの登場によって、メディアの枠組みが少しずつ変わってきてるのではないだろうか。テレビとtwitter。広告とtwitter。さらには新聞会社もtwitterに手を出し、今まで一方向的なコミュニケーションしかとっていなかったマスメディアが、ソーシャルメディアに頼ることで双方向的コミュニケーションをとろうとしている。
 また、各地域の小さなお店もアカウントを作り、リアルタイム性を活かした広報活動を行っている。
 これをtwitter上だけで終わらすのではなく、地域活性化に問題意識をもっている人々が集まり、さらに自分達が地域の学校や広報機関と関わりを持ち、twitterという点から他の点とつながって行き、面になっていく努力を行えば、その地域内でのメディア・ビオトープが他の地域に伝染して行き、日本全体が東京集中型メディア体制から脱却し、フラットで皆が楽しめるメディア界の再編につながるのではないか。

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