2010年5月13日木曜日

【ホンヨミ!】0514①ジャーナリズム崩壊【斎藤】

『ジャーナリズム崩壊』上杉隆

 本書では一貫して日本の記者のジャーナリズム精神が欧米に比べて脆弱であると述べられている。その最たる要因として記者クラブの存在があるとされる。実際に、日本においては記者クラブに所属していない者は政治家などの記者会見に臨むことができない。この日本独自の習慣がもたらす悪影響に対してフリーランスのジャーナリストとして活躍する筆者の視点から批判している。
 そもそもジャーナリストとはどういう存在であるべきなのだろうか。本書を読み終えた今思うのは、権力に対して批判精神を持ち自分の記事に責任を持って大衆にメッセージを発することができる存在であるということだ。
 第一に、権力に対しての距離感をとることができなくなれば批判精神を持ち合わせることができなくなるのは当然だ。しかし、これが実現されていない様子がわかりやすく書かれているので本書にて参考にしてもらいたい。第二に、記事に責任を持つことであるが、その方法として署名を用いることがあげられる。これはアメリカの新聞では当たり前のことらしい。誰かを批判するときに一方だけが隠れているのは不公平であるし、責任の所在を明確にすることで記者はより質の高い記事を書かざるを得なくなる。第三にメッセージを発するということであるが、この点に関しては誤解が生じる可能性があるので詳しく述べたいと思う。ここでいうメッセージとは、単に時事的な事象をありのままに記事にするのではなく時間かけて分析、解説、批評を加えるということだ。日本の社説などでも各新聞社によって論調に特色があるが、そういったことが記事単位で行われればなおよいのではないか。社説は新聞社としてのものであり記者個人が自由に記事を書くことができない。
 メッセージというと公共性や公平性が問題となるが、しっかりとした根拠をもってすれば読者側も納得できる。例えば、米新聞紙では大統領選の際に誰を支持するか明確にする。それは政策を慎重に判断して決断される。互いの利益を考慮することなく権力と公的性質を持つ機関が関係性を築くことは可能なのだろうかと疑問に思ったが、米紙では支持者を決めたからといえ、その人物の批判をしないわけではない。むしろ厳しく批評するのがアメリカのジャーナリズムである。こういったことからも読者の信頼を得るのだろう。
 そして、メッセージを持つのであれば自己批判ができなければならない。生半可な気持ちで私的な考えを紙面で綴られたのでは読者が被害を被るだけだ。そこで日本の新聞も批判欄や訂正欄を大きく設けるべきだと感じた。紙面での論争をさけるのでなく、自分が書いた記事が正しいと思うのであれば紙面で反論をし、過ちがあれば訂正をして謝罪をすればよい。その際にはなぜ間違えたのかを知ることができるのも読者にはプラスになるだろう。そこでちゃんと説明ができるのであれば問題はなく、そうでなければその記者は筆を折ればよい。シビアではあるがその程度の緊張感は必要だ。日本に住んでいると各メディアが報道することには間違いがないと錯覚してしまう。しかし、実際に誤報は存在するわけであり、アメリカの読者のように日頃から新聞等の訂正欄に触れている人々と日本人と比べるとメディアリテラシーにも差が出てくると感じた。
 本書において、一貫してアメリカのジャーナリズムが理想像として語られたが私はそうは思わない。特に近年のアメリカの戦争に関してはメディアが担った役割が大きいとも言われるし、全てを肯定するつもりはさらさらない。一方で日本の記者がもっと自由に活動できるようにするべきだと強く感じた。

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