2010年5月5日水曜日

[ホンヨミ!]0507①ジャーナリズム崩壊[矢部]

ジャーナリズム崩壊 上杉 隆(著)

この本は「記者クラブ」を中心にしてジャーナリズムについて書かれている。基本的、筆者の経歴を生かして、それに沿い関連付けていく形で述べられている。筆者は、NHKの報道局に勤務し、鳩山邦夫衆議院議員の公設秘書、ニューヨーク・タイムズ東京支局を経て、現在フリーランスのジャーナリストをしているという経歴の持ち主で、前述した「記者クラブ」を中心にして、日本のジャーナリズムが世界と比べて、どれだけであるかを述べるには、とても現場の声や状況を知る上では良いと思われる。しかし、この本は相当の外国かぶれの人間による、日本(ジャーナリズム)批判の本であると僕は思った。加えて、要所、要所で軽い筆者の、自分は日本的ではなく、世界に順応してるという自己誇示も介入してくる。僕にとっては自分の知らない角度からジャーナリズムについて見ることができて、文章の内容体、そして筆者自身が面白いので、読みやすかった。

本全体を通して、初めから最後まで、同じ内容に触れることが繰り返し行われていて、筆者の伝えたいことというのは伝わってきた。その繰り返しの中で僕が一番、印象付けられた内容について述べようと思う。

「署名(記事)」についてである。米国ジャーナリズムのひとつのステータスとして、自分の記事に対する自分の署名だけで勝負できるようなフリーランス・ジャーナリストになることが究極の目標としてあげられている。まず、新聞上で自分の記事に対して自分の署名をすること自体が、日本では(筆者曰く多少のズレはあるのだが)毎日新聞のみしか行われていなく、馴染み深くないものであるのだが、この点については、筆者のいくつかある繰り返しポイントのひとつでもあるので、ここでは割愛させて頂き、実際に読んで確かめてほしいと思う。話を戻そう。米国の考えでは、記事には常に責任が生じているという。つまり、取材・執筆した記事には最後までしっかりと責任を負う必要があるのだ。この発想が出る源というのは、誰もがジャーナリズムというものに尊敬の念を抱いていて、自分の仕事に誇りを持ってやっているということにあるのである。取材相手の名前と顔写真を出すのにも関わらず、自分は匿名を貫き通す、なんておかしなことだという発想である。自分だけ匿名の世界に逃げるということはやってはならない。これはジャーナリズム本来の精神から逸脱している恥ずべき行為であるのだ。しかし例外的に署名ができない場合もある。それは、生命に関わる、戦争や宗教的なことについて記事を書くときである。だが、そのときも署名ができない理由についての説明責任をしっかりと紙面上で果たしているのが米国である。このようなことから日本は外国のジャーナリストから多大な不信感を抱かれるのであるという。

この署名というポイントから、派生して客観的報道は実際ジャーナリズムではできなく、個人の視点で書かれることについてや記者クラブと公権力との癒着など、この本に詰まっているポイントはいくつもある。もしこの本を読んだ場合、人それぞれこの本について思うことは当然、多々あると思うが、読んで失敗はないのでぜひ読んでほしい。

0 件のコメント:

コメントを投稿