2010年6月8日火曜日

【バンナム!】0611①【田島】

日経エレクトロニクス
発行日 2009年09月21日号
タイトル 夜な夜な役員応接に忍び込む
サブタイトル 体感ゲーム機「機動戦士ガンダム 戦場の絆」の開発(第1回)
本文 業務用体感ゲーム機「機動戦士ガンダム 戦場の絆」は,
2006年11月の本格的な稼働から約3年経過しても
高い人気を保ち続ける異例の製品だ。
この製品がいかにして生まれたか。
その開発経緯を紐解く。話は約10年前までさかのぼる。

左上の写真は「O.R.B.S」の開発者たち。イラストはいずれもO.R.B.Sの開発途中のイメージ図である。(図:バンダイナムコゲームス)

 ゲームセンターやアミューズメント・パークなどに設置される業務用(アーケード)ゲームの中で,ユーザーから絶大な支持を受けている体感ゲーム機がある。バンダイナムコゲームスが開発した「機動戦士ガンダム 戦場の絆」(以下,戦場の絆)である。

 その名の通り,1979年に放映が始まったテレビ・アニメ「機動戦士ガンダム」を題材にしている。「P.O.D」と呼ぶコックピットのような巨大なドーム型筐体に乗り込み,筐体内の球面スクリーンに映し出された映像を見ながら,人型兵器「モビルスーツ(MS)」を操縦して遊ぶ。P.O.Dは他のP.O.Dと通信可能で,プレーヤーは「地球連邦軍」と「ジオン軍」の2チームに分かれ,仲間と協力しながら戦い,お互いのスコアを競い合う。

 戦場の絆は,ここ数年停滞気味のアーケード・ゲーム市場にあって,2006年11月の本格的な稼働以来,異例のヒットになった。1セット(P.O.D4台とカード・システム用機器など)で約1400万円という高価な商品ながら,登場から3年で約1000セット以上が全国のゲームセンターなどに販売された。

 戦場の絆は,開発当初に練り上げた目標を忠実に守り続けて作られた。この実現を技術面で手助けしたのは,旧ナムコが開発し,社内で「塩漬け」状態になっていた,ドーム型ゲーム機「O.R.B.S」だ。O.R.B.Sで導入された技術や開発経験などの再利用が,ドーム型筐体P.O.D,そして戦場の絆の成功につながったのである。

 すべての始まりは今から約10年前。O.R.B.Sの開発が始まる1999年春にさかのぼる─。

家庭用ゲーム機に負けたくない

 「なあ,こんなのはどうだ」

 新型アーケード・ゲーム機の開発に携わっていた大久保明(現バンダイナムコゲームス AM事業本部 AM研究部 ゼネラルマネージャー)と,小林威晴(現バンダイナムコゲームス AM事業本部 AM研究部 技術研究課)ら研究本部の技術者に,上司から差し出された1枚の紙。それがキッカケだった。紙には,視界を覆うほどの大型球面スクリーンにプロジェクターで映像を投射する,ドーム型ゲーム機の構想が描かれていた。

 1999年当時,アーケード・ゲーム業界は停滞していた。家庭用ゲーム機が進化し,美しい映像や激しいアクションをウリにしていたアーケード・ゲーム機との差が縮みつつあったからだ。ゲームセンター並みの品質のゲームが家庭でも楽しめるとあって,ユーザーはゲームセンターから徐々に足を遠ざけていた。

 逆風をはねのけるには,家庭用ゲーム機では到底実現できないアーケード・ゲーム機を作るしかない。大久保らはそう意気込み,臨場感の高い仮想空間をウリにする「没入型ゲーム機」に向けて,具体的な実現手法を検討していた。

 ドーム型ゲーム機は,その一つとして提案されたアイデアだった。平面のディスプレイを用いる手法も検討したが,「平面では既存のゲームの延長になってしまう。球面ディスプレイならば,今までと違う遊びができるという予感があった」(小林)。

地下駐車場でペンキ塗り

 大久保ら開発チームはドーム型スクリーンというアイデアが気に入り,試作してその威力を確認することにした。データ・プロジェクターは,すぐ入手できた。ほんの数年前は,100万円以上したプロジェクターが,既に20万~30万円で購入できる時代になっていたからだ。

 ところが,肝心の大型球面スクリーンが見つからない。専門のスクリーン・メーカーに特注することは可能だったが,海の物とも山の物ともつかぬアイデアに大切な予算をつかうわけにはいかない。

 何か流用できるものはないか,と大久保らは社内を探し回った。そんな彼らの目に留まったのが,ボタンを押してお菓子を取る「スイートランド」と呼ばれるゲーム機だった。

 「これだ」

 筐体中央には,半球型の立派なアクリル板が付いていた。

 使われていないスイートランドからアクリル板を取り外す。測ってみると,直径は約1m。開発メンバーは透明なアクリル板を地下駐車場に持っていき,銀色(シルバー)に塗り上げた。球面スクリーンを保持するフレームは手作りした。ホームセンターでパイプを買って,矢倉状に組み上げた。これがO.R.B.S誕生につながるはじめの一歩だった。

学生時代の部活のようだ

 スイートランドを流用した試作品で球面スクリーンに手応えを感じた大久保らは,さまざまな方法で球面スクリーンを作っては試した。どんどんスクリーンは大きくなった。直径2mの球面スクリーンを,発泡スチロールを削り出して作ったこともある。挙句の果てには,布を使った直径3mの球面スクリーンを製紡業者に縫ってもらった。ところがさすがに3mは大きすぎ,大久保らがいた開発ルームでは組み上げて試せなかった。

 社内で一番広い部屋はどこか。目を付けたのは役員用応接室である。夕方以降は空いている役員用応接室を,夜はテストに拝借することにした。役員用応接室とはいえ,天井高は3mもなかったので,スクリーンを横にしてテントのように張った。映像は下から投影することにした。

 それから大久保らは,夜な夜な役員用応接室に忍び込んでは,直径3mのテントをこっそり張った。開発メンバーは下に入って寝転び,天井の球面スクリーンを眺めた。上からは,四角いワイヤ・フレームが自分側へ迫ってくる。単純な映像だが,それでも今までにない迫力だった。「この映像を見た時,いけると思った」(大久保)。

 夜,役員用応接室で試作システムを組み,そして次の日の朝までに片付けるという日々が続く。まるで,学生時代の部活動のようだった。皆,夢中だった。ドーム型ゲーム機に対する自信はどんどん深まった。

 季節は秋。試作に取り掛かってから,約半年が経過していた。

運命の社内プレゼン

 プレゼンを見終わるとすぐ,東山朝日(現バンダイナムコゲームス CS事業本部 CS第2プロダクション アシスタントマネジャー)は足早に会場を出た。興奮を抑え切れなかった。

 「とにかくすごいから見てみろよ」

 この感動をもっと伝えたい。東山は同僚たちを誘い出す。彼は社員向けの研究発表会で体験した,1台の試作機に完全に心を奪われていた。東山の脳裏に浮かぶのは,約7年前のナムコの入社試験。同社の企業広告を考えるという課題で,東山は自分が夢見るコックピット型の体感ゲーム機を描いた。あの試作機なら,夢を実現できるかもしれない。あれから10年もたたずに,まさかこんな形でチャンスが来るとは思わなかった。東山は何か運命的なものを感じていた。

 東山の心を激しく揺さぶったのは,大久保らが試作したあのドーム型スクリーン筐体だった。開発開始から約1年が経過した2000年春,開発メンバーは成果を社内に向けて広く発表する場を得ていた。これが大きな転機となった。

 研究発表会はナムコの開発者なら誰でも参加できた。その中に,家庭用ゲーム・ソフトの開発を手掛けていた東山がいたのである。リアルな戦闘機アクションが楽しめるとして,「プレイステーション」でヒットしたフライト・シューティング・ゲーム「エースコンバット」。東山はこの開発に携わった人物として業界内で知られた存在だった。

 この発表会をキッカケに,東山はドーム型ゲーム機の開発に積極的にかかわるようになる。家庭用ゲーム・ソフトの開発という激務を抱えていたが,気持ちが抑えられなかった。

 ドーム型ゲーム機に心を奪われたのは東山だけではなかった。徐々に開発メンバーが増えていく。これまでドーム型ゲーム機の開発に取り組んでいたのは,大久保や小林ら4人のハードウエア技術者が中心だった。東山をはじめとするゲーム・ソフト作りの専門家がメンバーに加わったことで,ドーム型ゲーム機の開発は一気に加速する。O.R.B.Sが世に出る,約1年前の出来事だった。=敬称略

(根津 禎)


ゲーム市場全体はもちろん,アーケード・ゲームの市場規模もここ数年停滞している(左)。こうした状況下でも,戦場の絆はアーケード・ゲームの中で根強い人気を誇る。右は,ゲーム専門誌を出版するエンターブレイン発行の「週刊ファミ通」,2009年4月3日増刊号~9月10日号(集計期間は2009年2月2日~7月18日)が掲載した,「ビデオゲームTOP10」ランキングを基に本誌が作成した。同ランキングは全国の協力店20店舗の2週間の売上高から算出している。

日経エレクトロニクス
発行日 2009年10月05日号
タイトル お前のゲーム機が燃えているぞ
サブタイトル 体感ゲーム機「機動戦士ガンダム 戦場の絆」の開発(第2回)
本文 絶大な人気を誇るバンダイナムコゲームスの体感ゲーム機「機動戦士ガンダム 戦場の絆」。そのドーム型筐体の基となったのが,ナムコが2001年ごろに開発していた実験機「O.R.B.S」である。O.R.B.Sは一定の評価を受けたものの商品化に至らず,開発が凍結されてしまう。そのころ,「戦場の絆」開発メンバーが,全く別に活動を始めた。





右は「機動戦士ガンダム 戦場の絆」のドーム型筐体「P.O.D」(写真:吉田明弘)。下はそのCGイメージ(バンダイナムコゲームス)。

「O.R.B.S」のイラストと,デモ用ゲーム「スターブレード」の演出の企画書(いずれもバンダイナムコゲームス)。

〓創通・サンライズ

 本来ならば業務用(アーケード)ゲーム機の救世主になるはずだった。ゲームセンター一面が,ナムコ(当時)のドーム型ゲーム機「O.R.B.S」で埋まる。そんな光景を目指していた。しかし,厳しい現実の前に,その夢はかなわなかった。出だしは一見順調だったものの,商用化に向けた数々の課題を結局,克服できなかったからだ。O.R.B.Sの開発計画は凍結され,技術資産はお蔵入りにされた。「一石を投じることはできたが,緩やかに収束していった」(現バンダイナムコゲームス CS事業本部 CS第2プロダクション アシスタントマネージャーの東山朝日)。

 O.R.B.Sが再び日の目を見るのは,2006年11月に発売されたアーケード・ゲーム「機動戦士ガンダム 戦場の絆」の開発による。メカ系技術者だった小山順一朗(現バンダイナムコゲームス AM第2プロダクション ゼネラルマネージャー)を中心とする開発メンバーがO.R.B.Sを長い眠りから覚ました。小山らの活動を語る前に,O.R.B.Sの開発のその後の経緯を見ていきたい。

転がり込んだ絶好のチャンス


 「AMショー開催まですぐだな。準備に充てられる時間は少ないぞ」

 ドーム型スクリーンを備えたアーケード・ゲーム機の開発に取り組む大久保明(現バンダイナムコゲームス AM事業本部 AM研究部 ゼネラルマネージャー)や小林威晴(同研究部 技術研究課)たちは,その短さに奮い立った。

 AMショー(「アミューズメントマシンショー」)は,アーケード・ゲーム機が一同に集まる展示会である。商談の場でもあるため,商用化が前提のゲーム機ばかりが並ぶ。そのAMショーへの出展枠が偶然にも空き,大久保らが開発中のドーム型ゲーム機にお鉢が回ってきたのだ。ここで注目を集めれば商用化に近づく。大久保らは何としても出展したいと考えた。

 2001年9月の第39回AMショーに向け,デモンストレーション用に搭載するゲームは,戦闘機アクション・ゲーム「スターブレード」と決めた。約半年前の今からドーム型ゲーム機向けに作って間に合わせなければならない。

風呂場でイメージ


 「あれがこうなって…,いや待てよ。こうした方がいいな…」

 自宅の風呂の中で目をつむり,ひたすらスターブレードでの演出を考える東山。スターブレードという材料で,ドーム型ゲーム機の魅力をどう伝えるか。頭の中はそのことでいっぱいだった。

 東山は,そうした演出を考えるのが楽しみで仕方なかった。何より,東山自身がドーム型ゲーム機にほれ込んでいた。だからこそ東山は,本業が家庭用ゲームの開発であるにもかかわらず,上司に直訴してまでドーム型ゲーム機の開発チームに自ら加わっていたのだ。

 ゲーム時間は,1回5~6分。展示会で,より多くの人にゲーム機を体験してもらうためである。この短い時間に,ドーム型ゲーム機の魅力をどう伝えるか,そして話題性をどう盛り込むか。

 考え出した演出の一つが,ユーザーに首を振らせることだった。今までのゲーム機と違い,ドーム型の画面で正面を向いて見えるのは,全画面のせいぜい30~40%ほど。その部分に敵戦闘機などの映像をすべて表示するのではなく,あえて一部の映像しか出さないようにした。そうすれば,敵戦闘機を探すためにユーザーは首を振る。こうした動作は,今までの平面ディスプレイのゲーム機では体験できない。

 加えて,映像体験をほかの人に話したくなるような物語性も短い時間に盛り込んだ。例えば,特撮映画でよくある発進シーンなどを盛り込むなどして,「開始1分間でユーザーの心をわしづかみにしようと考えた」(東山)。

100万円以上のレンズを特注


 ゲーム・ソフトの開発と並行して,ドーム型ゲーム機の筐体開発も進んだ。大久保らは肝心の球面スクリーンの大きさを直径約1.5mに決めた。

 専門家の論文などから,スクリーンから1m程度の距離で,直径2~2.5mほどの球面スクリーンであれば,ユーザーはその存在を意識せずに,高い没入感を得られることが分かっていた。一方で,筐体のサイズはゲームセンターなどが備えるエレベーターに入る大きさにとどめたかった。全国のゲームセンターの80%に入れたかったからだ。その条件を満たすのは最大約2m。このほか,プロジェクターの解像度との兼ね合いでスクリーンの大きさは直径1.5mほどに落ち着いた。

 球面スクリーンとともに頭を悩ませたのが,プロジェクターに取り付ける専用レンズである。メンバーの誰一人レンズ・メーカーと付き合いなどない。そこで開発メンバーが自ら光学部品の展示会に赴いた。出展しているレンズ・メーカーに声を掛けて回り,エース光学というレンズ・メーカーに行き着いた。量産が決まったわけでないゲーム機向けに,レンズ用の金型は作れない。手磨きで直径15cm弱の巨大な魚眼レンズを製作してもらった。価格は100万円を軽く上回り,光源に使うプロジェクターよりもはるかに高い,ドーム型ゲーム機の中で最も高価な部品となった。

感動のあまり席を立てない


 AMショーの開催日はあっという間にやって来た。ゲーム機の正式な名称も「O.R.B.S」と決まった。球体を意味する「orb」から発想し,ほかの商標とかぶらないようにアルファベットの間に点を付けた。

 思えばつらくても楽しい日々だった。ドーム型ゲーム機の魅力に取り付かれて集まった開発メンバーたちにとって,これほど熱中した時間はなかった。「毎日が文化祭の前の部活動のようだった」(東山)。あとはAMショーの来場者に楽しんでもらうだけだ。「ユーザーに受け入れられる自信はあった」(小林)ものの,ゲーム機を購入する店側の反応はどうなるかわからない。「ある意味,破れかぶれの心境だった」(小林)。

 ふたを開けてみれば,大盛況だった。O.R.B.Sを一度体験しようと並ぶ人の列は,絶えることがなかった。再び列の後ろに並び,何度も楽しむ人もいた。ゲームが終わっても,感動のためかしばらく席を立たない人もいた。

 来場者から取ったアンケートの結果は,全出展ゲーム機の中で第3位。商用化直前のゲーム機ばかりがずらりと並ぶ中で,商用化の計画のない試作ゲーム機としては異例の快挙を成し遂げた。

 ランキング表のコピーを眺めながら東山は自宅で一人涙した。本業である家庭用ゲーム・ソフトの開発に戻るタイムリミットが迫っていた。ドーム型ゲーム機にほれ込み,部署の垣根を越えてまで参加した彼にとって,その感動はより深かった。

キラー・コンテンツを探す


 こうして,商用化へ一歩近づいた「O.R.B.S」。だが,その先には,厚い壁が待っていた。販売部門の説得である。大きくて高価な筐体には,「坪単価というのを知っているのか」といった罵声が浴びせられた。

 最大の問題はコンテンツの不在だった。AMショーで披露したスターブレードは,あくまでドーム型ゲーム機の魅力を伝えるデモ・ゲーム。これだけでは,商用化は難しかった。「本当に売る気なら『ガンダム』のような強力なコンテンツが必要」とも言われた。ガンダムのコンテンツを持つバンダイとナムコは当時,別々の会社である。ナムコがガンダムのゲームを製作するのは容易ではなかった。

 有力なコンテンツを搭載するため,開発チームはナムコ社内だけでなく,社外の有名ゲーム・クリエーターなどにも広くO.R.B.Sを披露した。皆一様に「面白い」と言ってくれる。だが必ず,「ビジネス・スキームの構築が難しいね」という一言が付いて回った。同時に工業製品などゲーム用途以外への転用も考えた。こうした取り組みも実を結ぶことなく,開発チームは徐々に熱を失っていく。

 AMショーから半年を経た2002年になっても,O.R.B.Sの商用化のメドは見えなかった。東山は既にチームを去り,本来の業務である家庭用ゲーム・ソフトの開発に戻っていた。結局商品化されることはなく,O.R.B.Sの開発は事実上凍結され,ナムコ社内で塩漬け状態となっていた。

このままでは死んでしまう


 「おーい小山~。在庫になったおまえの機械,今焼いているぞ~。ほーら,その音が聞こえるだろ~」

販売不振を責め立てるように,焼却所にいる販売担当者からの怒りの声が受話器越しに聞こえてくる。

 もともとメカ系技術者だった小山は,1990年にナムコに入社して以来,10年近くアーケード・ゲーム機の開発者として働いていた。その後アーケード業界の不況などを機にアーケード・ゲーム機の商品企画者へと転身した。会社は2000年中ごろに,不調のアーケード部門からソフトウエア技術者をごっそり家庭用ゲームの部門に異動させ,小山たちは残された。

 不況のアーケード・ゲーム機市場で生き残るために,上司が小山らに求めたのは,無数の新製品アイデアである。数を打てば当たるとばかりに少しでも良いと思った企画が出れば,すぐに商品化した。その結果,従来は年間10種類ほどだった製品数が,2001年には30種類ほどに膨れ上がった。小山たち作り手側も,売る側の販売担当者にとっても,地獄のような日々だった。

 あまりに多くのゲーム機が作られたため,似たようなゲーム機も多々あった。ヒット作に便乗しただけのゲーム機もあった。こうして在庫の山が次々と築き上げられていった。販売不振は部門全体に暗い影を落としていた。

「このままでは本当にまずい」

危機感が小山を突き動かした。

 小山は若手メンバーを中心に,自社はもちろん,他社品も含めて,売れなかったアーケード・ゲーム機にどんな問題があったのか,そして売れなかった理由は何なのかを洗いざらい検討した。

 見えてきたのは,「お客様であるユーザーのニーズを満たしていない」(小山)という事実だった。小山らは今まで,作り手側の都合だけでアーケード・ゲーム機を作っていたことにようやく気付いた。

 ユーザー・ニーズをきちんと満たす良い商品を作って組織自体を活性化させたい。そのためには,ユーザーが本当に求めるゲームを作ってヒットさせる必要がある。

 それは何か。小山の頭に浮かんだのは彼自身が学生時代に夢中になった,「機動戦士ガンダム」だった。

「ガンダムをやるしかない」


日経エレクトロニクス
発行日 2009年10月19日号
タイトル 大丈夫,あなたならできるよ
サブタイトル 体感ゲーム機「機動戦士ガンダム 戦場の絆」の開発(最終回)
本文 アーケード・ゲーム機事業の不振を打破するため,当時ナムコにいた小山たち開発メンバーは,大人気ロボット・アニメ「機動戦士ガンダム」を新型ゲーム機の題材に選び出す。これがバンダイナムコゲームスの大人気体感ゲーム機「機動戦士ガンダム 戦場の絆」の始まりだった。





左の写真は,「機動戦士ガンダム 戦場の絆」の大型筐体「P.O.D」に映ったゲーム画面である。ユーザーは楕円形スクリーンに投影された映像を見ながらMSを操作する。上の写真は,P.O.Dと,ゲーム・データを専用カードに記録する「ターミナル機」。(写真:吉田 明弘)

バンダイナムコゲームス AM第2プロダクション ゼネラルマネージャーの小山順一朗氏(写真:吉田 明弘)

c創通・サンライズ

「ユーザーが本当に求めるゲーム機を作りたい。良いゲームを作ることで良い組織も育てたい。題材はガンダム。興味ない?」

 今から6年ほど前のある日,東京都内の居酒屋に呼び出された高橋雄二(現バンダイナムコゲームス AMクリエイター部 ゲームデザイン課 アシスタントマネージャー プロデューサー)は,あいさつもそこそこにこう切り出された。口説いたのは当時,ナムコのアーケード・ゲーム部門の商品企画担当者だった小山順一朗(現バンダイナムコゲームス AM第2プロダクション ゼネラルマネージャー)である。小山は,不況に苦しむアーケード・ゲーム部門を立て直すために「ユーザー・ニーズをとことん満たすアーケード機を作る」と決意し,その題材として人気アニメ「機動戦士ガンダム」をひそかに選んでいた。

 小山の計画は,後に大人気を博するアーケード機「機動戦士ガンダム 戦場の絆」(以下,戦場の絆)として結実する。だが,当時の小山はメンバー集めから始める必要があった。

 競合大手に勤務していた高橋だったが,小山とは面識があった。いきなりの申し出に面食らったものの,仕事人としての方向性に大きな悩みを抱えていた彼にとって,小山の言葉はその答えのような気がした。

よみがえる「O.R.B.S」


 高橋が転職して小山の計画に参加したころには,既にゲーム・コンセプトはほぼ固まっていた。その一つが,ガンダムに登場するロボット兵器「モビルスーツ(MS)」に乗り込んで自由に操縦し,敵と戦って勝つ体感ゲーム機。「ガンダムのゲーム機」にユーザーが最も強く望むものは何かと考えると,答えは明らかだった。小山も含め,ガンダム・ファンなら誰もが一度は抱くあこがれだからだ。

 この実現のために小山が目を付けたのが,ナムコ社内で「休眠状態」だったドーム型体感ゲーム機「O.R.B.S」である。高い没入感を得られるこの筐体の技術を応用すれば,きっとユーザーを満足させられる。そう考えた小山が声を掛けたのは,O.R.B.S開発の中心メンバーの一人だった菊池徹(現バンダイナムコゲームス AMクリエイター部 ソフトウエア開発課 アシスタントマネージャー)である。O.R.B.Sを何とかして世に出したい。そう考えていた菊池にとっても渡りに船だった。こうして小山は,O.R.B.Sの技術資産と腕利きの技術者を,同時に手に入れた。

 小山に菊池,高橋などを加えた数人ではメンバーの頭数が足りなすぎる。そこで彼らは,家庭用ゲームソフト部門にまで足を伸ばし,社内プレゼンを通じて参加を呼び掛けた。配ったアンケートには「私たちのプロジェクトに興味がありますか」という問いを忍ばせた。「はい」と答えた人に片っ端から声を掛けて回るためだ。

できる,君にもできるよ


「僕もガンダムの体感ゲーム機を作りたいんです。でも今まで『倉庫』の映像しか作ったことがありません」

「いいじゃない。ぜひ,加わってよ」

「私,派遣社員なんですけど,参加しても構わないでしょうか」

「もちろんOKだよ!」

 徐々にメンバーが集まってきた。中には経験不足の者もいた。総勢わずか20人ほどで,人数も圧倒的に足りない。それでも小山たちにはうれしく,そして心強かった。「よく勇気を持ってみんな集ってくれた」(小山)。

 経験も人手も不足していたが,小山らは人材を育てながら乗り切ると決めた。本来なら専任の担当者を振るいくつもの仕事を,一人に手掛けさせる。メンバーが慣れてくると,二人,三人掛かりだった仕事を一人にどんどん任せることで「育成」した。躊躇するメンバーには,

「大丈夫,君ならできるから」

と力強く励まして背中を押した。

その数字は化け物だ


「コストは1台○○○万円を切りたい。目標台数は4000台です!」

「いくら何でもその数字は…」

 小山の言葉に,開発メンバーと営業部隊が集まった会議室は騒然となった。無謀とも言える安いコスト。そしてその目標台数の多さ。

 4000台という台数は当時,大ヒットしていた他社の競走馬育成ゲームの販売台数,約8000台の半分に当たる。言った小山本人も,その胃がきりきりと悲鳴を上げるほど背伸びした数字だった。一方で,目標コストにはまだ自信があった。一見,無謀な数字に見えたが,小山はかつてメカ技術者だった自分の勘を信じた。

「この値段で作れるはず」

 何よりも安く作り,販売価格を抑えないと,店に置いてもらえない。

 小山はゲームの仕様変更でも開発メンバーに難題を持ち掛けた。

「やっぱり全国でのネットワーク対戦機能を入れまーす」

 会議中に明るく宣言した小山に,メンバーが真剣な表情でかみ付く。

「冗談じゃないですよ,小山さんっ」

 小山らは,MSを操縦する実感をもたらすとともに,「団体(チーム)戦」の要素を開発中の戦場の絆に取り入れることを当初から決めていた。O.R.B.Sのコンセプトを継承しつつ,実用化に向けて球形だったスクリーンを楕円形に変更し,プロジェクターの位置や投射角度を変更するなど改良を加え,全く別物として生まれ変わったゲーム筐体「P.O.D」は,ユーザーが「MSを操縦する」体感を得るのに成功していた。だが,操縦を体感できるだけなら遊園地の乗り物と同じ。いずれは飽きられる。

 そこでユーザーを飽きさせないために,原作と同じく「地球連邦軍」と「ジオン公国軍」に分かれて戦うという,チーム戦の要素をゲームに盛り込んだ。こうすればユーザーは,MSを操作する実感を得るだけでなく,仲間と協力して敵と戦い,勝つ快感も味わえる。

 当初はそれでも,対戦する相手を店舗内にとどめる予定だった。全国規模のネットワーク対戦を取り入れた方が,戦う楽しみが広がるのは分かっていた。だが,時間も経験も不足した開発メンバーにとっては,その開発は敷居が高かった。

「大丈夫,きっとできるから」

 小山の中には,「口に出してしまえば,みんなは応えてくれる」というメンバーへの信頼が既に芽生えていた。

劇的に下がった。なぜだ!


 小山が次々と繰り出す無理難題をこなすことで,チームのメンバーは着実に実力を付けつつあった。実際,小山の期待通り,ネットワーク対戦の実現はもちろん,最大の課題であった筐体コストも部材を一から見直すなどして達成した。とりわけコスト低減に寄与したのは,プロジェクターとそのレンズである。「ここまで現実的な値段になるとは予想してなかった。奇跡的だった」(小山)。内心覚悟していた金額とあまりに懸け離れた安さに小山が逆に驚いたほどだ。

「ほんとにこの金額でできるの?」

「大丈夫です。作れます!」

 戦場の絆の最終的な公称価格は,P.O.D4台とカード・システム用機器などを含む1セットで1380万円。製造コストは明らかではないが,利益が出る値付けなのは間違いない。

悲しいけど,これって飽きられる


「実はですね…」

 会議の終わりに,小山は恐る恐る話を切り出した。小山はバンダイ(当時)の担当者と,同社の携帯型ゲーム機「ワンダースワン」のテコ入れ策などを話し合っていた。企画案をいくつも提案した最後に,自分たちが計画しているガンダムの体感ゲーム機について,説明したのである。

 小山のこのアプローチがきっかけとなり,ガンダムの版権の利用に向けた話し合いが始まった。契約がほぼまとまりつつあった2005年5月に発表されたのが,バンダイとナムコの合併である。両社は経営を統合し,同年9月に持ち株会社「バンダイナムコホールディングス」を設立することとなった。

 結果的に経営統合とほぼ同時となった2005年9月,小山らは戦場の絆の試作版を,国内最大のアーケード・ゲーム機の展示会「アミューズメントマシン(AM)ショー」に出展する。もくろみ通り,大きな反響を集め,発売も正式に決まった。だが,そこから小山らは戦場の絆のゲーム・システムに,大幅に手を入れることを決断する。そのままでは「ユーザーに飽きられる」と判断したのだ。もっとチーム戦の楽しさを強化したかった。

 まず,操作できるMSそれぞれに「個性」を入れた。格闘戦は得意だが,射撃能力の低い「格闘型」,長い距離からの射撃は得意なものの,格闘戦が苦手な「遠距離砲撃型」といった具合に,MSごとに特徴を持たせた。得手不得手があるからこそ,チーム戦では,役割分担を明確にして作戦を練って戦う必要がある。

 もう一つ導入したのが,同じ店舗内の仲間同士で会話しながら戦う「ボイスチャット機能」である。同機能の導入には開発メンバー内で賛否両論があった。狭いドーム型筐体内では,雑音フィルタの設計が難しいなど技術的な困難が多かったからだ。いったんは断念した導入を小山が決めた時には,「釈明してください!」と開発メンバーが詰め寄ったという。2006年初めに予定された店舗内での試験稼働「ロケテスト」まで,残り半年もなかったためである。

 それでも導入を決めたのは,小山自身が携帯電話機を使ってチームのメンバーとやり取りしながら戦ってみたからだ。その方が圧倒的にゲームが面白かった。ならば導入するしかない。ユーザー・ニーズをとことん満たす。この方針から外れるわけにはいかない。たとえ,大幅な変更作業が,「地獄のように大変」(小山)であったとしても。

以前とは違う,以前とは


 ユーザーを飽きさせないためのこうした取り組みは,発売後も続けられている。細かいアップデートを何回も重ね,新しいマップやMSなどを追加する。発売から約2年後に当たる2008年12月には「REV.2.01」として,メジャー・アップデートした。チーム戦をさらに楽しんでもらうため,ボイスチャット機能も進化させた。

 戦場の絆の成功の理由はシンプルだ。ユーザー・ニーズを満たす機能だけを可能な限り導入する。目新しくてもニーズのない機能は入れず,逆に技術的に困難であろうとユーザーが求める機能はなるべく盛り込む。その上で,ぎりぎりまで製造コストを抑える。発売後もアップデートを繰り返してユーザーを飽きさせない。

 こうした「王道」を貫くことが,戦場の絆の成功につながった。無謀といわれた4000台の売り上げ目標も達成した。2006年11月の登場から約3年。戦場の絆は,今でもアーケード・ゲーム機として不動の人気を誇る。

=敬称略

─終わり─

(根津 禎)



*************************************
モバイルゲームアプリや携帯用ゲーム機の普及など、アーケードゲームのライバルはさらに増してきている。
本記事に登場するコックピッド型操作のように、アーケードゲームには、携帯端末ではできないリッチなコンテンツが求められている。また、一回一回課金するシステムのアーケードゲームにおいては、リピーターを確保できるような「継続性」の工夫が必要だろう。誰をユーザーとするか?そのユーザーが本当に求めているものは何か?アーケードゲームにおいても集中と選択が必要とされていると感じた。

「ユーザーが本当に求めるゲーム機を作りたい。良いゲームを作ることで良い組織も育てたい。題材はガンダム。興味ない?」という言葉が印象に残った。

0 件のコメント:

コメントを投稿